#5122

振り返った思い出 2017

一年の節目というものが存在するわけではない。
在るのは、一年の節目に対して何かを見出したいと思っている自分が在るだけである。
それは期待や夢、あるいは不安や焦燥といったものと同じようなものなのかもしれない。
自分自身が大切だと思えばそれは大切なものになるし、
大切ではないと割り切ってしまえばその程度のものになる。
世の中を楽しいと思っている人の目に映る世の中は確かに楽しいが、
同様に世の中はつまらないと思っている人の目に映る世の中は確かにつまらないものなのだろう。

僕は一年を越えるということに対する何某かのこだわりを抱き続けて生きてきた。
それは西暦2000年という節目を子ども時代に体験したことに依るものなのか、
とにかく思春期以前からそれは確かにあって、
そしてそれは決して捨てるべきではないものだと確信してきた。

その確信を礎として、僕はその年の「色」を毎年必ず決めてきた。
今年は去年と何が違ったのか、今年だけの特徴的な出来事は何があったのか、
そして来年はどのような年であってほしいか。
という期待や評価を、たった4桁の数字にたったひとつの色を紐付ける。

2016年から見た2017年は空色だった。その抽象的な何かにさして意味があるわけではない。
ただ「去年とは違う一年」になって欲しいという思いは常にあった。
だからこそ、去年や一昨年のカラーとはなるべく縁遠い色を選んでいく。
しかし実際には、客観的に十年単位で自分という歴史を振り返ったとき、
それを抽象的な色に並べるならばどのような年も前年と似た色になり、
全体はグラデーション模様になるに違いない。
去年も一昨年も三年前も振り返ってみれば「去年の続きのような一年だった」
という自己評価を拭い去ることができない。
そもそも人はそんなに急に変わることはできないということなのだろう。
理想の対岸には常に「変わりたくない」という欲求があり、
それも確かに自分自身であることに変わりはないからだ。
そのどちらを尊重するかという選択の連続が思い出を形作っていく。
どちらも自分自身なのだから否定できる余地などない。

だからこそ、自分のことを自分だけで選んでいくことは効率が悪い。
どちらも否定のしようがないために、いちいち決心が鈍る嫌いがある。
それを真っ向から軌道修正できるものがあるとしたら他人、すなわち社会の存在である。
他人は自分自身の思いや希望の外にある存在であり、
変わりたい自分と変わりたくない自分、そのどちらも平等に否定できる立ち位置にある。

自分が持つ物差しだけで判断を繰り返してきた人間にとって、
「今」はその数限りない選択を積み上げてきた最先端である。
自分が行う判断は、自分が考える限り最善の選択を行ってきたはずであり、
その結果として今の自分がいる。
それもひとつの事実だが、そのように今の自分を高く見積もってしまうと、
他人が「変わりたい自分」あるいは「変わりたくない自分」のどちらかを否定してきたとき、
まるで「今」以前の積み上げられた自分をも否定されたような気になってしまう。
その結果、他人の意見から逃げ、孤独に尊重しきれない選択肢と戦うことになる。
果たして他人の意見さえ受け入れられなかった選択を、一人で決断することができるだろうか。

2017年の自分自身を振り返ってみると、
今年は「行動せずに後悔するよりも行動して後悔しよう」
という気概が多少なりともあったように思われる。
それは年齢的にいよいよ考えざるを得なくなった婚活等ひいては社会的自立の問題もしかり、
今まさにこの文章を東京のカフェから書いているように、年三度の旅行もしかり。
自分は行動力や常識を持ち合わせていないことはいちいち言われなくても分かっている。
しかしだからと言って若者の端くれとして
「行動力がないとできないこと」の膨大なすべてを諦めて良いものか。
もしかして、行動してみれば自分でも楽しむことができるのではないか。
そうすることによって行動力や常識を得ていくものなのではないか。
そんな希望を胸に抱いていた一年だったと思う。

今年一年の仕事を通じて、不安とは行動が抑制されているからこそ生じる感情なのだと知った。
その問題そのものではなく、その問題と向き合わないことそれ自体に不安を生じる原因があるのだと。
考える前に向き合ってみる、ということは、大学院で与えられた教訓にも通じるところがある。
考えることが無意味とは言わない。むしろ、考えることが自分の存在意義であることは確かだろう。
しかし、考えることだけでは本当の意味で他人や社会と向き合うことにならず、
それは有り体に言ってしまえば自己満足の世界に他ならない。
自己満足の世界は一方通行であり、行き止まりがある。
僕は今まで、あらゆる問題を基本的には考えて文章化することによって解決を試みてきた。
自分で自分を否定しようとすることが効率の悪いことだとは薄々感じていても他人に相談しないのは、
まず何よりも自分という人間が
他人の意見を受け入れられない特性を持っていることを知ってしまったからだ。
他人の評価をどこか素直に受け取れない。
叱られるときはもちろん、褒められたときでさえそうだ。
信頼関係ができていないから、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
では他人を信頼することとはなんだろう。それはどのように獲得するものなのだろう。

2016年は自己満足の限界を思い知り、2017年はそれを打開するための行動力を手にしようとして、
原因が分かったようなわからなかったような段階で終わったように思う。
無駄だったとは思わないし、珍しく前年より明確にステップアップした実感はあるが、
しかしどうも描く理想には程遠いようである。
社会的地位はさほど上がっているわけでもないし、友達が増えたわけでもない。
むしろ足掻けば足掻くほど社会との距離が開いていくような気がするのは何故だろう?

果たして理想は単なる幻想の類なのかもしれない。
けれども僕にとってはそんな見えない目標に向かって苦しみもがきながらも泳いでいくことの方が、
もしかしたら明確な目標に向かって走るよりも効率が良いということなのかもしれない。

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