#5165

妄想の代替手段


建国記念日連休に臨むに当たっては、おおよそ10個くらいの大型タスクを用意していました。
そして例によって例のごとく、大型のタスクには何も着手できない自分がいる。
何故できないのだろうと冷静にタスクリストを眺めてみたとき、
それらは思いついた時点ではやりたいと思っていたかもしれないけれど、
今この場でやりたいかと言われるとそうでもない、
けれど前々からやりたいと思っていたには違いない何か、でしかないことに気付かされるわけです。
思えばこのように一週間前の意欲とのギャップに苦しめられることを、
数年来繰り返して未だにこのカルマから抜け出せていないのは本当に困ったことです。

自分にせよ他人にせよ誰かからの承認欲求を満たしたいと思ったとき、
多くのリターンが期待できるものほどその道のりは遠くにあるわけで、
そのゴールの途中に中途半端なリターンを求めずにひたすらコストを支払い続けるのが
「努力」と言われているものだと思います。
他者承認を満たしたいというパターンはここではさておくとして、
問題なのは自己満足に依存してタスクをこなしていこうとするとき。
保留していた「やりたいこと」には少なからず一昔前が思い描く理想形というものが付随していて、
それは今の自分の視点からしてみればある種の「注文」であると捉えることができます。
何かをやりたいと思いついた時点の自分が、
それに対して努力を支払うことを具体的にイメージしながらタスクを作ることを怠った場合、
未来の自分に投げる「注文」は現実性を伴っていないものになってしまうのですが、
こうやって自分同士タスクを投げ合っていると、
それに現実性が伴っているかどうかは意外と分かりにくいものだったりします。
これから実際に作業をしようとしている自分さえも
どこかで現実を見ていないということなのでしょう。
現実的かどうかを考えずに注文通りに動こうとすると、
その入口で詰まってしまってなんともいえない無力感に苛まれることになります。

つまり、自己満足だけで立てた計画には、
そもそも現実にすることを想定していない妄想でしかないものも混ざり合っていることが間々ある。
それらは、タスクとして羅列したあとに「今の自分が本当にやりたいのかどうか」
ということを点検する手間をひとつ噛ませないと現実の自分はいつまで経っても動けません。
今回の連休では、とりあえず妄想でもなんでもいいからタスクを羅列しておいて、
連休初日になってからそれを厳選するつもりでした。
しかしいざ連休に突入すると、数週間規模で努力を支払い続ける必要のあるタスクは当然のこと、
この連休中で完結しそうなことにもさっぱり着手することができませんでした。

「今やりたいかどうか」という判断基準でのみやることを選んでいくと、
それはすぐに見返りがあるような生理的欲求、
例えばお菓子を食べたりといったことばかりに染まっていくんだなと思わされました。
ゲームもやり込み系には手が伸びないけれど、
ソーシャルゲームなら(すぐ結果が分かるので)着手することができる。
なんだかこんな生活を続けていくと努力の仕方を忘れそうで恐ろしくもあります。

それで改めて思ったのは、前々から保留しているタスクを羅列したところで、
それはもう保留した年月を重ねるほど理想が高くなってしまっていて
もはや着手できないのは当たり前。
昔やろうとしていた形そのままでやろうとするのではなく、
今やるとしたら今風に理想形を変形させていく必要があるのではないかと思いました。
例えば「こういう絵を描きたい」という昔々の目標を今更そのままそっくり実現するのではなくて、
「ちっちゃいアイコンを作ってみる」という形でとりあえず実現することによって、
実は「絵を描きたい」という欲求はそれだけで満足するのではないか、ということです。
この場合はタスクを思いついたときの目的がとある一枚絵を具現化することではなく、
「絵を描いてみたい」ということそのものが目的だった場合に有効になるのだと思います。
逆に、頭の中にあるイメージこそを具現化したいという欲求が基になっている場合は
小さなアイコンを描いて「絵を描いてみる」ということを実践したところで、
その欲求は上手く昇華することはできません。

さて、今やりたいことは「絵を描く」そのもののような抽象的な手段自体が目的の欲求なのか、
それとも「こういう絵を描きたい」という具体的な欲求なのか。
こういう視点でタスクを仕分けていけばもう少しマシな休日計画を組めるようになるのかどうか。