#5200

不安な話


独り言


ぼくはいま、焦っている。
年齢相応ではない自分に、そしてそれを何とかしようとする意欲のない自分に。
人生を目の前にして「何をしたら良いのかが分からない」という漠然とした不安がある。
思えば、ぼくは自分にとっての二十代はなにか、あるいは三十代は何をすべきなのか……
という、ロードマップのようなものを作ったことがなかった。空想したことさえなかった。
学校卒業までは、それは与えられて当然のものだったからだ。しかし、その先は?

今までのぼくの自己実現に対する価値観は「やりたいと思ったことをやる」という、
シンプルな指針に基づいて決められていたように思う。
自分がやりたいことをやるのが幸福であり、なによりの人生の目的であると。
それに必要なリソースはまず何よりも時間だった。
学生時代のぼくが思いついた「やりたいこと」は、
多くは芸術作品のような、他人や金銭といった社会の協力を必要としないものだった。
つまり自己表現こそが、自己実現の終着点にあるものだと信じて疑わなかった。

そのような価値観において、「仕事」とは自己実現と対極にある存在だった。
自己実現と同じ時間的リソースを大きく消費するため、あたかも夢と仕事は二者択一のように思える。
そしていつの間にか、仕事をすることとは自己実現を諦めることだという観念ができあがっていた。
「仕事が自己実現になる」などという夢は、考えたことさえなかった。
「他人」とはいつもぼくを褒め称えたり貶したりする存在に過ぎなかった。

それでも継続率の悪い会社で四年も生き残っているのは、
何よりもまず辞めていったチームメイトや取引先といった人たちが
ぼくのことを曲がりなりにも必要としているということを表明してくれただからだろう。
しかし、それは必ずしも自分自身の「やりたいこと」とは結びついていない。
いつの間にかぼくは他人の期待に応えることに囚われ、
自己実現がはるか後方に置いていかれてしまっていることを忘れかけていた。
子ども時代から受け継いできたはずの純粋な「何かをやりたい」という意欲を掘り起こそうとしても、
どこか胡散臭い、まやかしの欲望のように思えるようになってしまった。
そうしてぼくは「何をしたら良いのかが分からない」という苦悩に苛まれるようになっていった。
こんなに他人本位な人生で果たして本当に良いのだろうか、と。

年齢相応ではないと焦る気持ちの根底部分には、
年齢相応になるために積み上げるべきものを今までの自分が積み上げてこなかったから、
時間を遡れない限りは年齢相応にはなれないというある種の諦念があると思う。
「人は時間を積み上げてこそ立派になれる」という信念が自分を縛っている、とも言える。
しかしここでの年齢相応とは、あくまでも世間平均的な年齢との相対にすぎない。
他人の言う「こうだったらいいな」を、
自分自身の「こうだったらいいな」と混同しているだけなのである。
世間体に惑わされるあまり、自分自身がこれまで歩いてきた歴史の長さや内容が加味されていない。
そもそも人ができること・できないことは時代や個人によって千差万別であることは明らかなのに、
何歳になったらこうあるべきという観念に基づいて人生を設計することは理にかなっていないと思う。

では、本当に自分が本意から思う「こうだったらいいな」と思う像とは何なのだろうか。
今でも、やりたいと思っているが留保している物事は山のようにある。
仕事を辞めてそれらを片っ端から着手することが、自分の思い描く本当の理想像なのだろうか?
その道を選んだとして、その十年後は果たしてどうなっているのだろうか?

不安に思うということは判断を保留している状態であるということを2017年に学んだ。
不安とは現状を改めて主体的に判断したい、変えたいという思いがあってこそ生じるものだ。
現状を変えたくないと思えば不安を感じることもない。
高い理想は必ずしもポジティブで現実的とは限らないが、不安の出所を慎重に探っていけば、
本当の意味で自分が何者になりたくて何をしたいのかが分かってくるのではないか。

不安な気持ちをこんなにも抱え続けて、なんて時間の無駄なんだろうと思ったこともあった。
しかし、それがもしも子ども時代からの野心が現実社会に揉まれて姿を変えたものだとしたら?
不安という名の泥を落として向き合ってみれば、
案外そこにあるのは「こうだったらいいな」と思う人生の指針そのものなのかもしれない。

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