#5282

かくれんぼ


独り言


どうしたんだろう。あまりにも無気力だ。
いや無気力であることはいつものことだ。ワクワクしたことなんてこの数年味わっていない。
それにしても今日はいつにも増して無気力だ。何もやる気が出てこない。
新しいことは当然のこと、こういうときの逃げ場として今までやってきたことさえやる気がない。
従来のことを維持しなければという気持ちもない。面倒くさい、とは少し違う。
やりたいことが何かを探そうとする、そのプロセス自体を何かに阻害されている。

ネガティブな語彙は何故こういう状況に陥ってこそ活発に頭の中を駆け巡るのだろう。
いま置かれている状況に逐一ストレスを感じる。その不甲斐なさに頭が割れそうになる。
昔の知り合いがいまの僕を蔑む声が聞こえてくる。本当の意味で信頼できる人なんてもう存在しない。

社会は何かをやろうとする人に対して、なんだかんだで何かしらの反応を返してくれる。
何々をやりたい、と思って探せばそれに応えてくれる何かは大抵見つかるようになっている。
だから就業中、誰かに頼まれたことをしている限りは案外落ち着いていられる。
ところが、何もやりたくないという状況に対しては冷ややかであることが圧倒的に多い。
だから最近は平日よりも休日の方が精神を蝕まれやすい。
何かをやりたくてもそれに行動が伴わなければすぐに行き詰まる。
無趣味では到底やっていけない、と思う。
人は退屈に負けても生き続けることができるのだろうか、と思う。

いや、それはそもそも退屈と戦うということを生きる意味に据え置くからこそ至る考えだ。
ヒトは本来退屈を乗り越えるために生まれてきたわけではないのだろう。
このような考え方は生きることに精一杯な人にしてみれば少し傲慢なのかもしれない。
しかし、ぼくに言わせればそういう人たちは役割を与えられているというだけで恵まれていると思う。
それさえも与えられなかったとき、人は何かを楽しみ続けることだけが生きる意味になる。
そして何かに「飽きる」ということがそのまま社会との隔絶、そして空虚感に繋がっていく。
生きているというより、生かされているという気がしてくる。
そうして何かを楽しまなければならないと気が急くと、かえって何も楽しめなくなる。

物心が付いて以来二十年余り、僕は自分なりに何かを楽しみ続けてくることができた。
しかしここにきて急に、好奇心が人生に追いつかなくなってきている。
そして一度「これを楽しんで、いったい人生に何の意味があるのだろうか」と考えてしまったとき、
これまでに積み上げてきた何かが一挙に瓦解していくような絶望を感じた。
それ以来、ぼくの人生は長い長いトンネルに入って未だに暗闇から出ていない。

この人生が自分ではない何かによって救われることを心から信じることができない。
だからこそ結局のところ自分が何かをするしかないと心から思う。
無気力で動けないなら、動けるようになるまで小さくなって嵐が去っていくのを待つしかない。
そうしてある晴れた日に、もし分相応の幸せを見出せなかったとしたら、
次は如何に無気力でも生きなければならない理由を考えざるを得なくなるだろう。

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