#5356

慣性による高慢


空想


人はできることをやるしかないけれど、
できることだけをやり続けていると無自覚なうちに少しずつ高慢になるんじゃないか、
という話。本来随筆系のテーマですが、眠いので“空想”カテゴリでサクッと。

2018年初頃に思いついて、いつか“一人言”にまとめようと思っている最近の考え方に、
自分の行動と意識は、できる・できない・やりたい・やりたくないという
4つのグループによって格子状に区分できるではないか、というものがあります。

それらをそれぞれで吟味する必要はあるにせよ、しかし人は結局できることをやるしかありません。
それで、こうやって日々ルーチンワークを消化していて凄く思うのは、
「できる」という枠組みにいることが当たり前になると、
自分はその枠組みの中で、「自分はできて当たり前」という意識ができる気がするんですよね。
それってある種の高慢なのではないかと思うわけです。

できることしか選ばなければ、できなくて挫折することと無縁になるわけで、
あまりにも無縁だと、できなさそうな物事に挑戦している人を同じ目線で見られなくなる。
いろんなメディアの向こうで頑張っている人に対して、
どこか冷ややかな目線で見ている自分にふと気付くのです。
なにしろ、もうしばらく挫折経験なんてないから、それを実感として感じられない。
高難易度に挑戦するゲームも、挫折を突き付けてくるゲームもそういえば最近やってない。
だからきっと、挫折した人に対して同情できないんだろうな、と。

自分は最近、物事を見るときに批判的目線から入ってしまう癖を何とかしたいと思っていて、
その「癖」の根底にあるものが、
「できることが当たり前の環境による堕落」なのではないかとふと思いました。
ネットで声高に物事・報道・立場・考え方等々を何でも批判している人ほど、
そういう人が晒し上げられると実は何もしていない人だったりするじゃないですか。
これも一種の批判的先入観なので他人のことはとやかく言えないのですが、
しかし確かに自分たちは、無関係な人を意外なくらい、残酷に批判できるものなんですよね。
それがヒトの本能ならいざ知らず、
これによって抱えているストレスもそれなりの割合で存在するように思うので、
自分個人の信念によるものだとしたら、それを是正することを試みたいものです。

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