#5366

昨日の想いを


独り言


二年前のぼくに言わせれば、このブログを存続させるということにおいて、
最初の六年間は楽しみながら慣習を作り、
次の六年間はそれに振り落とされまいと慣習にしがみつく期間だった。
そして慣習に振り落とされないために今までやってこなかったことをやろうと思い立ち、
様々な足踏みを繰り返してきたのが13・14年目だったように思われる。

ブログを続けること、それそのものが良いか悪いかなどということはもはやわからない。
ただ率直に言えば、七年目から14年目までのぼくはブログ運営を楽しんできたとは思いがたい。
楽しめないのは、変化がないからだ。思えば存続させることに苦しみを覚えるようになったのは、
そんなことを考え始めてからだったかもしれない。
変革を求めているはずだったのに、いつの間にかぼくは過去の自分へ猜疑の目を向けていた。
「これから変わっていくであろうやり方は間違っているはずがない、
ということはつまり、未だ変わっていない過去のやり方は間違っているのだ」と。

過去のやり方を否定すれば、手元に残るものは少ない。それで行き詰まるのは当然のことである。
だから、変革を求めるにせよ、ただ存続すれば良いと思うにせよ、
今までにあったことそれ自体を直ぐに否定してはならない、と改めて思う。

あらゆる物事には理由がある。今のところ、ぼくはこれを否定できないので信じている。
もしこれがこの世界のあらゆる物事に通用するのなら、
「ぼく自身が何かをできなかったこと」についても何かしらの理由があるということになる。

変革が必要だ、変わりたい、しかしその気持ちに行動力が伴うことは少なかった。
言っていることと行動していることにギャップが生まれていることを自覚すると焦ってくる。
行動力のない自分、変われない自分をよく責めたものである。
しかしそういった計画の諸々を現実にできないとき、その対象をよく観察してみると、
単に力量不足であるだけで出来ないと決めつけられる物事は意外と少ないことに気付く。

何故「面倒くさい」と躊躇しているのか?
どうやったら本当の目的を達成できるか?
そもそもそれは本当に必要なことなのか?

そのような問答を通すと、ふと同じベクトルで別の答えがポンと出てくることがある。
何も愚直に最初の案を採用する必要などなかったのだ、ということに気付くのである。
あるいは、そもそもそれを「やるべき」と決めたのは自分のつまらないプライドがそうさせただけで、
実際に何もする必要がないという答えに行き着くこともある。
もちろん、これら問答を通してもなお残る「やるべきこと」もある。
しかし、このように問答を繰り返すことによって、その計画にはある種の納得感がつく。
むろん、毎度上手く行くわけでもないが、
これはいわば日常生活上の行動決定プロセスであり、ぼくは「」と呼んでいる。

14年目に気付いたことがひとつある。
ぼくは13年目まではブログというものを、
単にぼくという一人の人間の歴史を刻んでいる対象に過ぎないと思っていた。
しかし14年目に改めてブログというものと向き合っていくにつれ、
ブログがある種の哲学を形作っているものでもあるということを見出すようになった。
それは、自分なりのあらゆる抽象的な物事に対する答えだったり、
ある悩み事について悩んで考えて悩み抜いて生み出した本質だったり、
あるいは「何故生きなければならないか」といった究極の問いを模索した結果だったりする。
そういったことを、文字という形で少しずつアウトプットしているものこそがブログなのだと。

800万文字を超えても、まだまだ人生の本質には近付いている気がしない。
しかし、足跡を振り返れば、着実に“それ”へと歩んでいるという実感はある。
これはきっと、文字化したからこそある実感だろう。
頭の中に保留している今なりの考え方にもそれなりの歴史や経緯があろうが、
それは生活や自分自身と密着し過ぎていてなかなか俯瞰できない。
「自分自身」から一旦考えを引き剥がすというプロセスがあってこそ、
その本質を立体的に捉えることができるはずである。

これこそが、ブログというものを続けていく意味なのではないだろうか。

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