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楽しむための意欲について


空想


たまに言われる、「学生はお金はないが時間があり、社会人はお金はあるが時間がない」という話。
これ自体はまあ概ねその通りだと思いますが、
個人レベルの観点から言わせてもらえば、
この話はお金と時間の間にある「意欲」を絡めていかないと現実にそぐわないと思います。
現実では、いわゆる鬱になっていなくても
「お金はあり時間もあるが意欲がない」ということが間々起きるからです。

動機はともかくとして、なにかやりたいと思ったことがいくつかあるとき、
実際にそれを「本当にやりたい」と思っているのかどうかというのは、
年齢を重ねれば重ねるほどにぼやけてくるように思うんですよね。
世の中のことを知れば知るほど、たったひとつのことに集中することが難しくなる。
あるいは、それをやる「意味」「価値」に目を向けてしまうからこそ手を出せない、
というようなこともあると思います。学生時代、そこまで損得勘定をしてから行動するようなことは
年齢を遡るほどに少なかったように思います。

本当にこれは楽しめるのだろうか、と吟味するようなものは大抵楽しめなくて、
それでも着手しようとするのは、他の誰かがやっているからだったり、
これをやることで他人の気を引くことができるかもしれなかったり、
あるいは単に前々からやっていたことを途切れさせたくないからだったり、
要するに自尊心の範疇でただやっているだけで意欲そのものとは関係がない、
というような「やりたいこと」が、迷走しているときは特に多くあるものです。

では、自尊心を抜きにして、あるいはやる意味や価値を抜きにしてでもやりたいことって何か。
これは突き詰めていくと、「食べる」「寝る」といった原初的な行動に収まると思います。
逆に言えば、それよりも高次な行動というのは、
少なからず自尊心や意味や価値に基づいてしている行動であって、
学生時代に夢中になっていたことも結局はそれに従って動いていたということが言えます。
じゃあ、ひるがえって学生と社会人の差ってなんだろう。

ひとつ確かに言えるのは、それは新鮮味の差、だと思うんですよね。
年齢を重ねると、すでにやったことのある割合というのが徐々に高くなっていく。
例えばまったく新しいゲームタイトルを遊ぶにしても、
他の既存タイトルとはシステム、操作方法などがまったく違うというわけではなくて、
一定のジャンルに通じるステレオタイプをなぞっている部分があることは当たり前の話。
「音楽ゲームを遊んだことのない人がビートマニアをはじめて遊ぶ」のと、
「スーパーマリオブラザーズをやったことのある人がドンキーコングをはじめて遊ぶ」のでは、
同じ新規タイトルを遊ぶにしても新鮮味の割合は後者の方が大きく落ちるというわけです。
ゲーム歴20年を超えてくると、その割合というのはさらに大きくなる。
それでもゲームが好きで遊び続けたいか、遊んでも遊んでも既視感が拭えなくなり、
多くの新鮮味を渇望するようになるのか。その分岐点がどこかにあったんだろうなと。

いろいろなジャンルに目を向けるほどの意欲があればあるほど、
新鮮味の少なさに困るときがくるのは遅くなると思います。
素直にただ遊ぶだけという価値観において、コンテンツにはどうしても消費期限があります。
1タイトルだけで10年も20年も遊び続けられる人は稀でしょう。
そんなときに、次を探すだけの手間を支払うことができるかどうか。
それは、単に時間やお金があればそれで良いという話ではありません。
時間やお金を使ってコンテンツを探すための努力が必要になってくるし、
探すためのツールや技術も必要になってきます。それは、お金で買えるものではありません。

本当の意欲のないものに時間やお金を消費しているということは、
お金や時間の価値を自ら落とすことになり、またその逆もあり得るのではないかと思います。
学生でも時間を持て余していたら時間がないのと同然だし、
お金をたくさん持っていても毎回「つまらなかった」で終わるようなものに投資していては、
それはお金を持っていないのも同然です。
つまり、意欲というものはお金や時間の価値を決めるものなのではないかと。
その意味では、究極的には意欲さえ十分に備わっていればお金や時間の有無は二の次で、
案外そこまで渇望するものでもないのかもしれません。

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