#5464

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独り言

「大人とは何か」という問いに悩み続けた十年間を越えて、
ついに大人になるとは何かということを考えているどころですらないステージに来てしまった。
ここからの十年間は、後戻りできない自分の人生そのものが始まる。
「いつか来る人生の本番の前にどうありたいか」などということを考えている余地はない。
本番はとっくに始まってしまっていたということを、納得していくしかないのだろう。

事態は切迫している。しかし選択肢が少ないというわけでもない。
20代の自分は、「大人とはこうあるべき」というステレオタイプに向かって、
劣等感と戦いながら向かっていくいわば一直線の悩みによって時間を消化していた節がある。
世間は決められたレールを敷いてくれているけれど、それの上を歩ける人数は限られている。
自分からレールの外に出てしまった自分に、それに対して不満を言う権利はない。
ぼくは、この十年をかけて、自分がそのレールから外れた方の人間であるということを
自尊心に言い聞かせ続け、それなりに納得することができるようになったと思う。
であればこそ、これからの道は決して一本道ではない。何歳にはかくあるべきという制約がない。
自分の歩いた道が、そのまま人生になる。

それにしてもいつからだろう、ぼくは年齢を重ねていくことに対する実感が明らかに磨り減った。
新しい年齢を突き付けられて、なんの焦りも感じていない自分がいることに焦る。
あらゆる物事、例えば年末年始に年を越すことの実感にも言える。
年を経るごとに「実感」が遠ざかっていってしまうことに対する寂しさも感じていた。
何故、実感を得ることもなく目の前のことを通り過ごしてしまうのだろうか。
それはきっと、それと本当の意味で向き合っていないからだろう。
つまり、年齢や年を越えたことを、それを認めたくない自分を否定できないのである。
まだ子どもでいたい、ずっと変わりたくないと思うからこそ、
大人年齢になったことに対する実感を何年経っても得られなかったように。

人生そのものは、生きている実感を保障してくれない。
いくらこれからの人生に自由を見出したとしても、
それに実感が伴わなければこれから過ごす時間はたとえ自由でもひどく無味乾燥なものになるだろう。
だからぼくは、これからの十年間で生きている実感を手に入れたい。
衣食住、金銭、時間的余裕。これらはやろうと思えば自分でも手に入れることはできる。
しかし、生きている実感だけはお金で買えない。
しかもそれが、人生において意外なくらい大切なものなのだと、過去十年間で気付かされた。
今までに見出した趣味を、年齢を理由に辞める必要はないけれども、
実感が完全に枯れてしまったのならそれは切り捨てていくべきだと思う。
そうやって持っていく荷物を整理しながら、意欲というリソースをどこに割くべきかを計算していく。
今の自分は、どこまでなら持って行けるキャパシティを持ち合わせているだろうか?
ということを、日々振り返りながら進んでいくのである。
考え尽くしてから歩き始めたのでは遅すぎる。

実感を得るためには、それを認めたり、認められたりするところから始まるのだと思う。
自分という人間を認める。あるいは他人からそのように認められる。
他人が認めてくれなければ、自分自身が認めざるを得ないものだと観念する。
認めることに対して否定する内なる声があれば、逃げずに向き合ってみる。
その繰り返しによって得られる道が、ある程度華やかであることを、今は信じてみるしかない。

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