#5500

生きる為に


独り言


もしもこれからも何も報われず、他人に愛されることもなく、そのための努力もできないのならば、
そんな人生には何の希望もないから、さっさと終わってほしい。

人は何故生きるのだろう、という疑問に答えようとするとき、
その「生きる」には概ね2つの意味があることに気が付く。
まずひとつは、人生に自分から意味を見出そうとする「生」である。自発的に生きようとする力。
それは、一言で言えば「欲」へと歩む自立した力である。
その「欲」の形や種類は、その人が歩んできた人生によって様々に姿を変える。
食べることが当たり前に満たされる人生においては、他人から愛されることが生の目的になるし、
食べることさえままならない人生ににおいては、まず「食べる」ということが生きる目的になる。
欲求の段階によってさまざまに形を変える「欲」に向かっていく力を、本来は誰もが持っている。

もうひとつは、非・自発的という意味で「生かされている」という意味もある。
死ぬことを許されない。停滞することを許されない。自由であることを許されない。
自立することを許されない、他人に管理される人生。
僕は何故生きているのかといえば、それは他人つまり親に、生かされているからだと思う。
その事実そのものは自分自身の欲望や精神とは関係なく存在する。

人は最初から自立なんてできるわけがないから、最初は誰でも「生かされている」のだと思う。
まともな家庭ならば「生かされている」から「生きている」に切り替わる瞬間がいつか来る。
その「いつか」というのが、親が背を押す瞬間が来るのか、
子どもがある日突然そうしようと思うのかは分からない。
けれども、いつかそれを当事者の意思だけでやらなければならないのは確かだ。

家庭環境の程度に関わらず、
日本社会は「生きる」ための人生に方向転換できる絶好の機会が何度かある。
それは高卒や大卒といったいわゆる学歴の節目である。
特に現代ならば大学を卒業するとき、
それが自動的に「生かされる」から「生きる」へのスイッチになることが多い。

しかし、その選択の機会から逃げ出した人に襲いかかる現実は無情なものである。
自分自身でスイッチを探すところから始まる。
それは、暗闇の中手探りに進む道を探すようなものである。
どうやって頑張ればいいのか、どうやったら頑張ったことになるのかが分からない。
孤独に生かされながらも、差し伸べる手はない。
退路を断って無理矢理にでも進む道があっても、それへと進む自分を信じることができない。

社会は義務によってはできていない。何故生きなければならないのだろう、という問いは無意味だ。
別に、何も社会や他人はあなたに生きることを強制しているわけではない。
けれども、生かされているか、生きているかという違いはあると思う。
それは人生の操舵輪を自分自身が握っているか、あるいは他者が握っているかという違いでもある。

果たして自分が舵を握って、うまく乗りこなすことはできるのだろうか。
そんな不安を拭い去ることができずに、気が付けば何年も人生は停滞していた。
何年も停滞するうちに、僕は自分で生きようとする力を失っていた。
この無力感を、どうやって説明すればいいのだろう。
本来は誰もが持っているはずの欲望というものを、自分自身が持っているなどとは到底思えない。
到底思えないから、自分の人生を生きようという気力も湧かない。
実家に依存しているうちに、まるで生きる気力を剥奪されてしまったかの感がある。

自分の人生を生きたい。それが正解に決まっている。なのに、それを選べない。
そのことがたまらなく苦しい。まるで「生」そのものを許されないような感覚がある。
今も僕は生きているけれど活きていない。
その感覚は14年も昔からあり、その闇をここに書き続けてきた。
今までその闇の正体は「孤独感」だと思ってきたけれど、それは違う。
孤独感は生きていればこそ、「孤独でありたくない」という欲望がなければあり得ない。
欲望に忠実にいられるのなら、それは一応生きて、活きていることにはなる。
この闇の本質は家庭という呪縛にあると、今は思う。
自分の人生を生きられないことほど、この世に生まれて不幸なことはないだろう。
いっそのこと、もっともっと生きることに背一杯な貧困の家庭に生まれていればよかったのに。
そうすれば僕も分相応に「生きる」ことができたかもしれない。

もう「生きる」ことを諦めようと思っていた。
けれども、これを書くうちに、もう一度だけ運命に抗いたくもなってきた。
剥奪された「生」を取り戻し、欲望に忠実に生きることを、
あと一度だけ――許してはくれないだろうか。

コメントを残す