#5536

続・嫌う話


独り言


人を嫌うというプロセスについて、今時点の考えを一度整理しておきたい。

人に対して苛立つとき、嫌いだと思うときというのは、
概ね3つのパターンに分かれるような気がする。
まずひとつは、相手の行動が自分にとってタブーとしている物事を思い出させたときである。
自分が「これだけはやるまい」と信条にしている禁忌を、恥ずかしげもなく目の前で披露されたとき、
いつの間にかその人に対してイラッとする自分がいる。
いわゆる羞恥心というやつなのだろうか。これは加齢に従って緩和されてきた気がする。

もうひとつは、自分が相手に対して何某かの期待を抱いているのに、それが裏切られたときだ。
あるコミュニティの一員には最低限これくらいのモラルは持ち合わせてほしい、とか、
社会人ならこれくらいはできてほしい、とか、
自分の友だちや家族ならこれくらいは理解してほしい、といった調子で、人は簡単に他人に期待する。
しかし期待されているということを自覚する場面は意外に少ない。
そうしてそれぞれが自分なりに行動した結果、それがある人にとってひどく期待外れであったりする。
すると、自分の「こうあってほしい」と思う気持ちを相手に伝えなければと焦るのだが、
そのプロセスが人やその精神状態にとっては他人に対する嫌悪感となって現れることがある。
子どもを叱る親をイメージしてくれれば分かりやすいかもしれない。
これは逆に、加齢に従って深刻になっていく気がする。

そして3つ目は、自分がこうありたいと思っている願望を、他人が先に手にしたときだ。
これは特に、自分が相手を格下だと思っている場合に抱くことが多い。
不思議なことに、自分が相手を「一人前」と見なしている場合にはそうは思わない。
行為自体は問題ではなく、その人が成し遂げていることそのもの対して苛立ちを覚えるのである。
そして、自分も「早くこうあらねばならない」とひどく焦るのである。
そのプロセスが、やはり人やその精神状態によっては嫌悪感となって現れる。
2000年代の僕はこの神事状態を「独占欲」と呼んでことごとく黒歴史扱いしてきたが、
一定の年齢を経てもこの感情はあまり緩和していないような気がする。

一つ目の嫌悪感については、特に問題はない。
自分は自分で他者は他者だという、この世に当たり前にある真実を受け入れられるだけで良い。
ニュースで流れてくる恥知らずな犯罪者の話を聞いて苛立つようなことは稀にあるが、
それも少し心に問いかければ、他者は他者ということで済ませることができる。
むろん、自分を辱める相手がとても近しい関係だった場合には事はそう簡単には済まされないのだが、
この場合はどちらかというと二つ目の嫌悪感の問題が多くを占めている場合が多いと思う。

二つ目の嫌悪感については、究極的な話、期待しなければそれで済む。
「相手はそれほど期待に足る人なのか?」
「相手をそんなに嫌うほど好きなのか?」
と自問自答してみることで、相手と自分の距離感を再確認することで、
期待が不必要に膨らんでいないかどうかを点検することができる。
もちろんこれは、あまりにも距離感が近い相手には通用しないだろう。
これから長く付き合っていかなければならない相手には、
自分の「期待」を相手に伝えなければならない日はいずれくる。
しかしその場合でも、自分が苛立っているのは期待外れの行動をしている相手そのものではなく、
あくまでも期待と現実とのギャップに対して苛立っているということを思い出したい。
これは2018年を通じて得た教訓でもある。

問題は、3つ目の嫌悪感である。
今の時代は、他人の失敗だけでなく、「他人の成功」もゼロ距離で見る機会が多すぎる。
承認欲求に餓えているのは何も自分だけではないということだ。
そうして「自分がいつかやりたいと思っていたこと」を先取り報告してくる相手を見るにつけ、
悔しさが募ってくる。精神状態によっては、それがひどく辛いことがある。
そこにはさまざまな負の感情が混じり合っていると思う。
自分ではなくて何故あの人が目立っているのだろう、という羨望感。
自分は所詮あれを成し遂げる力はないのだと思わずにはいられない、劣等感。
自分がここに至って未だに行動できていないことに対する、焦燥感。

これらを克服するための明確な回答をまだ僕は持っていない。
けれどひとつ考えられるのは、「自分」というものがまだしっかり立っていないからこそ、
他人の成功と自分の負の側面とを不必要に対比して結びつけてしまうのではないか、ということだ。
自分の中で確固たる「自分はこれさえやっていれば良い」というものがないからこそ、
自分を自分たらしめる何か、他人に認められるための何かがほしくてたまらない。
そしてあれもやりたい、これもやりたいと実力以上にアンテナを張り巡らし、理想を膨らませている。
そうやって妄想に忙しいかぎりはどれもこれも実現はできないし、行動もできない。
先を越されて当たり前だし、選択もできていない状態なのだから焦るのも当たり前である。

要するに、「こうありたい自分」を選択できていない状態が諸悪の根源なのではないか。
そんな自分を尻目に、理想のうちひとつを選択して成し遂げている相手を見ると、
特にSNS越しでは相手は結果だけをつぶやくため、いかにも簡単に成したように見える。
すると何故あの人は簡単に達成できて、自分はそもそも選択の段階からこんなに悩んでいるのだ、
と不公平感を感じずにはいられない。
もしかするとその人の途中経過を知っていれば、こうは思わないのかもしれない。

自分も他人も同じように頑張って、悩んでいるとして、
自分のことは自分が多く知っているけれど、他人のことを知ることができる機会は少ない。
羨望感と劣等感と焦燥感の問題の根底には、そのような情報量の差もあるのかもしれない。

他人のすべてを受け入れるべきだ、などとは思わない。
あらゆる人を嫌ってはならないとも思わない。
しかし、少なくとも上に挙げた3種類の嫌悪感が本当に嫌っている矛先は、
他人そのものではなく、他人を通じて見ている「自分」が持つ、
解決したいと願っている課題や希望といったものにあるような気がしてならない。
くれぐれも鏡を殴るようなことがないように気を付けたいものである。

コメントを残す