#5600

選択の話


独り言

極論を言えば、この世はたいてい思い通りになる。僕はそう信じている。
逆に言えば、思ってもみなかったことは現実にはならない。
「たいてい」と書いたのは、あらゆるイレギュラーがそれを阻害するからである。
イレギュラーの主たるものが「他人」である。他人は思い通りにならない。
「他人」によって進路を変えられたり、住む場所を変えられたりと
僕たちは自分で思っている以上に他人に人生を左右されている。
要するに自分の力ではどうにもならないことは思い通りにならない。
しかし、自分の力で何とかなるものについては、なんだかんだで思い通りになっている。

今、僕がこの場にいるのは自分自身が積み重ねてきた選択の結果であり、
そしてその「選択」というのは、その時々において可能な限り最善を選んできたはずなのだ。

今、僕がここで何かを憂いたり楽しんだりしているのは、他人の行動の結果ではなく、
自分がしてきた最善の選択の結果であって、それ自体は否定のしようがない。
他人と人生の道を競い合った経験など大学受験くらいしか身に覚えにない僕にとっては、
自分の人生というのはどうしようもなく自分だけが背負っているものなのである。
少なくともそれは、他人が負うものではない。

僕は何度となく、自分の人生を投げようとしてきた。
つまり自分の人生の悪い部分について、他人に責任をなすりつけようとしてきた。
他人と比べれば矮小に見え、恵まれているとは思いがたいそれを、誇りに思うことなどできない。
今でもそれはそう思う。現時点の生活も、なんて恵まれていないんだろうと思う。
しかし残念ながら、これは自分なりに最善の選択をした結果であり、思い通りになった結果である。
選んだのは紛れもなく自分なのだ。人生をやり直したとしても、結局ここに行き着くのだろう。
それをどうして他人のせいにできるだろうか。

人生は選択の連続である。僕たちは選択によってのみ人生を歩んでいる。
しかし、選択肢はその人それぞれによって違う。選択肢を与えるのはたいてい他人である。
自分の知らなかった選択肢を他人に与えられ、その上で最善の一手を選んでいく。
恵まれた家庭に生まれた子どもは、生まれながらにしてその選択肢が多い。逆も然りである。
何もそれは金銭的に恵まれているかどうかという意味ではない。むしろ精神的な意味が強い。
精神的に恵まれていない家庭の子どもは、狭い選択肢の中で強いて言えば最善に思えるそれを、
「自分はこれをするしかないのだ」と睨み続けている。
しかし、それも最善の選択の結果である。

僕たちはその時々において可能な限り最善を選んで人生を歩んできた。
しかし実際にはその「可能な」範囲というのはどうしようもない他者によって左右されている。
なので、実際には「可能な限り最善を選んで人生を歩んできたと思い込んでいる」のが正しい。

僕もここに至る道のりでは、狭い選択肢を潜ってそれなりに最善を選んできたように思う。
どうしようもない後悔に苛まれている出来事も、
当時の自分の視野の限界を鑑みればどうしようもなかったのだと思うことができる。
選択肢が少なかったが故に、
後になって知らされていなかった選択肢が明らかになったとき、人は後悔する。
それでもその時に選んだ一手が、その時点での最善だったことは間違いない。

選択肢を与えられさえすれば、人は可能な限り最善の一手を選ぶことができると思う。
もちろんできないことは選べないし、選択肢を増やすことはなかなか思い通りにいかない。
人生の課題は選択することそのものよりも、選択肢の数にあると僕は思う。
「これしかない」などと思うことは大抵が誤った判断であり、
またイメージができていない物事に首を突っ込むのは後になって迷走していたと振り返ることが多い。
選択の連続である人生も、振り返ってみればいくつかの法則性が見えてきた。

少ない選択肢を苦し紛れに選んでいく人生より、
多くの選択肢から余裕を持って選んでいける人生の方がきっと気持ちが良いのだろうと思うし、
それでこそ本当に望みある自分像に近付くことができるだろう。
少ない選択肢の連続では自分が選んだという実感がないのも当然のことである。

選択肢を増やす努力をすること。
まずやるべきなのは、それなのかもしれない。
人は、知らないことはできない。できないことはできない。でも、できることは結構何でもできる。
条件さえ揃えば、この世はたいてい思い通りになる。

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