#5800

趣味の話


独り言

趣味が無い。
ネガティブ思考の反芻に対して一定の対症療法を習得した自分が、次に直面したのはこの問題だった。
ようやく憂鬱のトンネルを抜けたと思ったら、そこは何も無い焼け野原だったのである。

思えば物心がついて以来、僕は何らかのモノに夢中になってきた。
それは未就学時代に出会ったゲームというプラットフォームに負うところが大きいが、
とにかく当時の僕は、それが自己肯定感の源であったり、
友達との縁を繋ぐためのツールであったり、あるいは自尊心の拠り所であったのである。
翻って、ゲームという趣味が衰退してきたからこそ、憂鬱が表に出てきたという可能性も十分にある。

学生時代は、ゲームは趣味どころかそれが「本業」とも言うべきものだった。
学業が疎かになっても、それは本業ではないのだからどうでもいい。
当時の自分にとってはゲームというものが、何よりも自分というものを形作っていた。
だから赤点を取っても悔しくなかったが、ゲームで負ければ本気で悔しかった。
それは学生としてはふさわしくない姿だったと思うし、
今の自分が当時の自分と相対したら、そんなことより勉強しろと叱ってやりたい。

なぜ、当時の自分はあそこまでゲームに夢中になることができたのだろうか。
そしてなぜ、2019年の今、急激にそれが通用しなくなってきているのだろうか。

それは今のところ、「見てくれる人がいなくなったから」だと思っている。

僕は長男として生を受けた。物心が付く頃には、弟という遊び相手がいた。
当然、自分がゲームというものに夢中になれば弟もそれに食いつくことになる。
結果として僕は、少なくとも2014年頃まではゲームの遊び相手に不自由することがなかった。
自分がゲームで頑張れば頑張るほど、兄弟間では大きな顔をしていられる。
小中学校時代は友人関係もそれに似たようなものだった。
だから僕は頑張った。頑張れば誰かが認めてくれるから。誰かより上に立てるから。
「認められたい」という欲求は当時はもっと無意識的なものだったのだろう。
そんなことをいちいち考えるよりも目の前の楽しさが勝っていた。

僕が自己顕示欲のためにゲームをプレイしていたということは、プレイ遍歴を遡ればよく分かる。
FF、ドラクエといったストーリーありきの王道RPGはほとんど遊ばなかった一方で、
パーティ自慢ができる『ドラゴンクエストモンスターズ』『ポケットモンスター』にはハマった。
タイムアタックやスコアアタックなどやり込み要素のあるアクションゲームを好み、
『どうぶつの森』や『Minecraft』など自己表現ができるゲームにも没頭した。

好成績を出しても何も言われないのに少し理解が遅いだけで罵倒が飛んでくる学校の世界と違って、
スコアが出なくても叱られず、スコアを出せばみんなに認められるゲームの世界は居心地が良かった。
「否定する者がいない」というのは、ゲームの次にハマった音楽の世界にも重なるところがある。
誰も否定する者がいない。だから僕は趣味の世界にますます没頭した。

次第に「見てくれる人」の範囲はインターネットの発展に従ってますます広がっていった。
自分のサイトに遊びに来てくれた人とオンラインプレイを楽しんだり、
サイト上でひたすらスコアを競い合ったり。
そして2006年、動画サイトの登場で「見てくれる人」の存在はますます増えていくことになる。
僕にとって自己顕示欲が最高に満たされたのは2008年、
やっぱりあの『ピクミン2』の8日クリア動画が広く認められたあの瞬間だったと今でも思う。

しかしそれがピークだった。
2009年以降はゲームプレイ実況文化がより多くの人に受け入れられるようになり、
動画投稿をするユーザーが爆発的に増えたことによって供給過剰となり、
ゲームプレイ動画をアップしただけでたくさんの人に見てもらえるのは一握りの人だけになった。

どんなマイナーなタイトルにも必ず凄腕のプレイヤーがアップした動画が存在し、
それらを越えることは容易ではなくなった。
インターネット上にゲームプレイヤーが溢れるようになり、
僕はそこで今までの自分が単なる井の中の蛙に過ぎなかったことを思い知らされた。

ゲーム仲間としての兄弟や友人も次々に疎遠になっていった。
純粋に「ゲーム仲間」と言えるような存在があったのは、せいぜい高校時代までだろう。
それ以降も身内にゲームを辞めない人はいても、
お互いにプレイするゲームの方向性が違いすぎて話が合わなくなることの方が多くなった。
小学校時代なら「放課後、お前んちでスマブラやろうぜ」だけで満場一致を取れたのが、
今やスマブラだけでなく、ゲームジャンルだけで無数の選択肢が生まれてしまい、
結果として必ず共通してプレイするタイトルというものが無くなってしまったのである。

そうして僕は孤立することになった。
2019年になって突然、この孤立した感覚を味わうようになったのは、
一旦仕事を辞めて時間が有り余るようになったからだろう。
今思えば、ゲームに対する限界は2015年頃から薄々感じていたと思っているが、
仕事の忙しさがそれを隠していた。要は、ゲームどころではなかったのである。

それは仕事によって自分を「見てくれる人」を補完できていたというのも大きい。
今まで自分を否定せず見てくれる人なんてゲーム界隈にしかいないと思い込んでいた自分を、
何も否定せずに認めてくれた同僚、先輩、後輩がいた。
彼女たちが、ある意味では自分をゲーム依存から抜け出させてくれたと言えるのかもしれない。

しかし、結果として手元に膨大なゲームタイトルのライブラリがあるにもかかわらず、
余暇の時間は何もすることがないというのは深刻である。
音楽も同じだ。12年培ってきた約13,000曲というライブラリはかけがえのないものだが、
その存在があまりにも当たり前すぎて、ひどく色褪せたものに見えることがある。
これらはとても大切なものであることは絶対に間違いない。
しかしこれらに現在も「夢中」になっているのかと言われると、そうではない。
客観的に見れば、ただ惰性で消化しているだけである。
果たして、これを堂々と「趣味」と言うことはできるのだろうか?

趣味の定義についてある人が言っていた。
積極的に時間を割いてでもやろうとするものは「趣味」だ。
それに対して、時間が余っているからやるものは「暇つぶし」だ。
この定義に沿えば、僕にとってのゲームや音楽というものは暇つぶしに過ぎない。
なぜなら、2019年現在の自分は時間が有り余っているからだ。

改めて、今の自分が趣味に没頭できない理由は二つあるように思う。
ひとつは、それを見てくれる人がいなくなったから。誰にも評価されないものには夢中になれない。
もうひとつは、時間が余りすぎているから。目標もない暇つぶしに過ぎないものは夢中になれない。
あとは、可能性のひとつだが「仕事がゲームに成り代わったから」というのもあり得る。
しかしこれは認めてくれる人たち全員と別れてしまった以上、今後の可能性としては見出せない。

夢中になれなくなったことで、主体的にそれらに取り組むことができなくなった。
どんなゲームで遊んでいても「結局、上には上がいる」と思ってしまう。
自分がこのゲームで認められることはないんだろうという諦めの気持ちが、
ある種無意識的に想起されるようになる。

いやまてよ、と、ある考えに行き着く。
それじゃあ自分はこれまでの26年間、ただただ人に認められたいからゲームをしていたのか?
ゲームが楽しいから遊んでいたのではなかったのか?
例えば漫画は面白いから読むのであって、
読んでいることを他人にひけらかす為に読んでいるわけではない。漫画に関してはこれは今も同じだ。
だから漫画はまだ主体的に楽しむことができている。
では、ゲームはそういった楽しみ方は一切消え失せてしまっていたのだろうか?
本当に認められたいからというただそれだけのためにゲームをやっていただなんて、
それは酷く虚しいことではないだろうか……?

漫画と同じように、自分が楽しむためだけにゲームを遊ぶという方向性を探る。
それこそが、ゲームという趣味を27年目も存続させるための唯一の希望なのかもしれない。
しかし、26年間、意識的にしろ無意識的にしろ、
自己顕示欲の発散を主眼においてプレイしてきた自分が、今更純粋に遊ぶことはできるのだろうか?
また、その要求に耐えられるようなタイトルは見つかるのだろうか?
『スーパーマリオ オデッセイ』を朝までプレイしていたときのようなワクワクを、
僕はもう一度味わうことができるのだろうか?

ゲームという自分の根幹を成してきた趣味の立場が危うくなっている。
だからこそ、ゲームというものを見限って別の趣味の方向性を探るべきだと考えたこともある。
しかし、今までの経験則から言って、
幼少期から培ってきたものを安易に捨てることは、取り返しのつかないリスクが内在する。
環境が変わって従来のプレイスタイルを維持できなくなったのであれば、
新しい環境に寄り添えば良い。
一生の趣味にするためには、ある程度の柔軟性も必要なのかもしれない。
ゲームの実績を自分のステータスにする時代は終わったのだということを、納得していくしかない。
何にしろ、自分自身が自分の趣味を否定してしまえばそこで終わりになってしまう。

改めて、自分という存在は、まず何よりも自分という存在の味方であるべきだと思うのである。
問題の解決にあたっては、まずはそこから出発してみたい。
目まぐるしく環境が変わり、自分なりのこだわりを維持できなくなっている今、
「子ども時代に戻りたい」などと思うのはただの思考停止にすぎない。
変わってしまった今の環境に、子ども時代から持ってきたものをどのように適応させるか。
それが大人になってしまった僕たちの使命なのかもしれない。

磨き上げてきた子ども時代から持ってきた宝物は、ひっそりと胸の内にしまってある。
誰にも否定されたくない、とおびえながら。
しかし、それは表に出なければ誰にも認められることもない。
表に出る勇気があれば、きっと宝物はもっと輝くに違いない。
胸の内でひっそりと錆びていく宝物を、それでも自分だけは誰よりも大切に持ち続けている。

僕にとっての趣味とは、そういう存在なのだと思う。

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