#5820

新潟から


独り言

今思えば、大学院時代はなんて罪深いことをしたんだろうと思う。
当時の僕はあの二年間を振り返って、意外なくらいすがすがしく思っていた。
成長できたと思っていた。
それはまず何よりも、修士論文という最大のハードルを越えられたからだろう。
地獄のような修論執筆の日々の中で、
それまでネットにしか自己表現の相手がいなかった僕に、
リアルでやってきたことを認められることの嬉しさと、それに必要な努力量を教えてくれた。
そのこと自体は今でも良かったとは思っている。

しかし、今改めて思い返せば、あの2年間は就活に対する思いが完全に抜け落ちていた。
修論が厳しいあまり、とても就活どころではなかったのだろう。
当時の僕が就活できなかったことを嘆いてすらいないのを見ても、
よっぽど当時は修論が心を占めていたのだと分かる。

2009年ゴールデンウィークから2011年大学卒業まで、
あんなに散々苦しめられた「就活」という悩みごとを解消するべく得た追加のモラトリアムでは、
修論というまた別の悩みごとを得てしまったがために、
就活というものは隅に追いやられてしまった。
僕自身はあの二年間は苦しみの方が勝っていたと思っているが、
客観的な目からして見れば、就活から逃げて大学院へ行き、そこでも就活から逃げ続けたに過ぎない。
そうして僕は、「新卒」という人生で一度きりのカードを、
ほとんど無意識のうちに捨て去ってしまったのである。
今思えば、大学院時代はなんて罪深いことをしたんだろうと思う。

そんな大学院生活の終わりが近付いてきたとき、
僕は特に悩むこともなく自然に実家に帰るという選択をしていた。
このときに親とどういう話をしたのかは今はもう覚えていない。
帰ってくることを咎められたわけでもない、なんだか心の在り方についての話をされた気がする。
僕自身、お金を稼げないのだから実家に帰るのは当然だと思っていた。
それが人として恥ずかしいことなのだという意識は微塵も感じていなかった。

そうして2013年、実家にいながらにして就職活動が始まった。
同時に趣味の維持のためという大義名分によって、ようやくアルバイトをすることができた。
アルバイト先には「就職活動も並行で行うので、最長で一年の勤務」
という条件を提示して採用してもらった。実際に就活名目で休みを取ることも多かった。
そして唯一面接に漕ぎ着けたのが、市内のweb制作会社だった。
企業説明会にも参加せず飛び入りで適性検査を受けさせてもらい、面接官と少しだけ話した。
自分の他はみんな年下の大学生だった。
当然のように落ちた。
落ちたら次に何をすればいいのかが分からなかった。
次第にアルバイト先では人が減り、頼られるようになり、徐々に忙しくなっていった。
夏頃には僕は就活という大義名分をすっかり忘れ、
ただのフリーターとしてアルバイトに専念するようになった。
もともと、それらを両立するスキルなんてなかったのだろう。
だから就活も身が入っていたとはとても言えなかった。

2013年11月、卒業した大学院の教授から、今度出す本の一編を執筆してほしいと依頼を受ける。
これは本腰入れて取り掛からなければならないと思い、
時季的にもちょうど良かったのでアルバイト先に辞めることを告げた。
当然今後も居てくれるものと思っていたらしく退職のことは意外に思われたらしいが、
それでも現場の人たちは最後まで親しく接してくれた。

身勝手な退職だったが、あのアルバイト先にはとてもお世話になった。
自己肯定感が低く、仕事をしたことのなかった自分にとって、
あの場所は、あの人達は、コミュニケーション能力を試すのにうってつけのステップだった。
60歳過ぎの年配が職場に唯一の20代だった僕をかわいがってくれて、
仕事を頑張って最後の2人になると、仕事終わりにいろいろな店に連れて行ってくれた。
本当にお世話になったし、同時に急に辞めて申し訳なかったと思う。
でも僕はあの場所に勤めたおかげで、
お金を稼ぐだけなら自分でも意外となんとかなるという自信を得た。
それは、6年間アルバイトすらできなかった自分にとっては大いなる進歩だったと思う。

さて、就活を諦めてアルバイトに専念し、
そのアルバイトも辞めればやはり今度こそ就活に専念しなければならない。
しばらくゲーム活動に注力したあと(思えばこれが最後の「やり込みプレイ」の機会だった)、
明けて2014年になり、僕はようやく重い腰を上げてハローワークへ行ってみた。

本当はweb系の会社に行きたい。けれど2013年の就活ではいくつか受けて全部落ちたし、
そもそも趣味としてやっているとはいえまだそこまでスキルに自信もない。
かといって、自分の興味のあることからあまりにも遠い職種を長く続けていける自信もない。
アルバイト時代、本当に楽しそうに仕事をしている周りの人たちを見て、
お金を稼ぐだけなら自分のできる範囲でどんな仕事でもできるだろうけれど、
それを長く続けていくためにはやはりある程度その仕事が好きでなければならないと感じていた。

そこで、web系の仕事も請け負っているが基本は簡単なPC操作だけをしている会社に入社した。
中学生レベルの簡単な筆記試験に合格して、人事担当の人と面接をした。
一週間が過ぎ、落ちただろうから次を探そうかと思っていると、電話で合格通知が来た。
そうして僕はそれから五年間、事務職のあるプロジェクトリーダーとしてやっていくことになる。

あの時点で「できること」の範囲内かつ「好きなこと」にも被さっている業種。
その二つの環がギリギリ重なる仕事にありつけたのは幸運だったと思う。
けれど、僕は2014年のこの時点で今度は「自立」することが頭から完全に抜け落ちていた。
実家に当然居続けることができるという前提がいつの間にか出来上がっていたのである。
学生時代は、お金さえあれば一人暮らしをずっと継続したい、と思っていたはずなのに。
何かを目指すとき、いつも何かと何かを両立できない。それが僕の特質であるように思う。

もっとも、アルバイト時代で得たお金はPCの買い替えで大方使い果たしてしまったし、
あの時点で県外就職を目指していたとしてもお金が足りなかったことは明白である。
そう、僕は学生時代からフリーター時代までの間、慢性的にお金が不足していた。
お金はあればあるだけ趣味のために使ってしまい、
「自立のための貯金」なんて考えたこともなかった。
学生時代は自立のためには貯金が必要であるという考えにすら至っていなかったかもしれない。

2014年に入社した会社はブラックだった。少なくとも僕が入社した時点ではそうだった。
先輩社員のプログラマーはマネージャーに毎日理不尽な内容で怒号を上げられ、
年下社員の女の子もマネージャーに毎日いじめられた末に精神を病んで辞めていった。
そのマネージャーも、ほぼ毎日社長に数時間単位で説教を受けていた。
サイコパスな社長が完全に支配するトップダウン体質。
古参連中は社長の奴隷として土日も働き、社長にへつらい、そのストレスを新人にぶつけ続ける。
当然、末端である新人は長く続かない。半年持てば良い方である。4日で辞めた人もいた。
そんなブラック会社で僕はどちらかというと評価されていた方だったらしい。
しかし、ここでずっと働くのも無理があると思っていた。
2014年秋、先輩社員が辞めて僕がマネージャーのストレス解消相手に選ばれそうになったとき、
それをきっかけにして僕は一度辞めようとして人事部に相談を持ちかけるが、
長時間の面談の末、説得させられて思いとどまることになる。
2015年には僕は早くもどちらかというと古参の仲間として、
ストレスをぶつけられることはなくなった。その代わり僕の部下である後輩がいじめられた。
いつも誰かを犠牲にしなければ人間関係が維持できないというのは、
あまりにも脆い会社であると言わざるを得ないが、それが結局のところあの会社の実態だった。

それでも僕はあの会社に入って良かったとは思っている。
それはやはり、僕に「できること」のギリギリ範囲内の中でさまざまな出会いがあったからだ。
もう何度も書いたけれど、僕は末端の新人と接する立場として200人以上の人と交流してきた。
彼らのためにマニュアルを日々改訂し、作業しやすいようにフォーマットを改良し続けた。
作業効率は2.5倍近く改善し、人も雇い続けたが、
それを上回るペースで人が減っていくので毎日が時間との闘いだった。
その中で僕を全面的に頼ってくれた人たちがいた。彼女たちは僕の仕事への自信を高めてくれた。
あの人達がいたからこそ頑張ってこれたのだろう。
なるほど、仕事というものはこうして回っているのだと、彼女たちに学んだ。
いや、仕事だけでなくこの社会そのものが、頼ったり頼られたりして成り立っているのかもしれない。
この学びは、ブラック会社で五年間頑張らなかったら得られなかっただろう。

しかし、毎日が残業の連続で仕事する以外は寝るだけというような毎日で、
次なるステップを思い描くことは困難だった。
そうして僕はしばらくの間、実家生活に甘んじることに溶け込んでしまい、
今度はその沼から抜け出すのに苦労することになる。
また、ブラック会社というのは一旦「村」の中に入ると非常にお互い仲良くなるが、
「村」の外の人間は人間扱いすらしないという特徴がある。
一度「村」の中に入ると、意外と居心地が良いのである。

実家やあの会社という沼から抜け出そうとした最初のきっかけは2016年ゴールデンウィーク。
初めて一人で東京という街を満喫した。
こんなところに住めたらどんなに良いだろう、と思った。
仕事に時間を押し潰されていた当時の自分にとって、それはまるで夢物語だった。
まるで自分には挑戦する権利はないという風に思っていた。
しかし実家生活ではプライベート空間の確保の難しさという点からストレスが溜まるようになり、
それが明確に家庭問題へと姿を変えるようになると、
一人暮らし再開について、「いつかできたらいいな」から「しなければならない」に変わった。
それでもやはり金銭的な問題という壁があり、
それ以上に当時の仕事は自分抜きで回るとは到底思えなかった。
自分にしかできない業務というものがあまりにも多かったし、そもそも代役がいなかった。
自分が辞めたら、関係各所に多大な迷惑がかかってしまう。
自分の後継者になる人間を会社が雇うような雰囲気はまるでない。
そうしてますます袋小路に陥ってしまう。

その袋小路を破ったのは、もう自分は若くないという年齢の問題も相当後押ししたが、
それ以上に職場で一番親しかった人が辞めていったことが一番のきっかけだった。
その人は自分を慕ってくれて、自分に人との接し方を教えてくれた人だった。
その人と小さな後輩がほぼ同時に辞めたことで、僕は社内でほとんど孤独になってしまった。
これでは、もう後継者がいないというどころの話ではない。自分が潰れてしまう。
2018年、ようやく目が覚めた僕は転職活動のために初めて具体的に行動しようとする。
当時、見定めていた転居先は仙台市。
その理由は曖昧なもので、地元と比べると地下鉄が通っているから車通勤せずに済むかもしれない点、
東京よりは家賃相場が安いから給料の安い職場でもやっていけるだろうと思った点がある。

仙台に住むことに決めた。あとは今の会社を辞められるかどうかだ。
当時、会社を辞めるための具体的な条件をふたつ考えていた。
ひとつは転職・転居のための貯金150万円。これは割とすぐに達成することができた。
もうひとつは、今自分が担当しているプロジェクトを別の会社に譲渡すること。
このプロジェクトは年間にして2000万円以上の収入がある会社でも随一の規模の仕事だったが、
ストレスが渦巻く小さなブラック会社にはとても荷が重かったのも事実である。
僕がリーダーになる前は効率が悪すぎて人件費だけで大変な支出になってしまい、
とても利益を生み出すことはできなかったし、そもそもデスマーチになることも少なくなかった。
それは僕がリーダーになっても同じ事で、効率をいくらあげても純利益を多く出すのは難しかった。
営業が相当安い金額で契約してしまったのがそもそもの原因らしい。
委託元である会社にとっても、これだけ安く仕事をしてくれる会社は他にない。
だからこちらが「もう辞めたい」「せめて値上げしてほしい」と再三交渉しても、
相手は渋るばかりでなかなか話を前に進めてくれなかった。
そうしているうちにこちら側も交渉することを諦め、安い値段で毎年請け負い続けるようになった。

それでもいつか限界は来る。社長が辞めようと言えばこの会社は絶対にその方向で動く。
このプロジェクトさえ無くなれば自分は会社での存在意義を失い、すんなり辞められる。
だから僕は社長の気まぐれをずっと待っていた。きっと年度末前には交渉のときが来るだろう。
そう思って待っていた2017年度末。しかしそのときは来なかった。
ズルズルと惰性で継続することになった2018年度。
このままじゃダメだと思いつつも、なかなか沼から抜け出すことができない。

そうこうしているうちに僕は心を病んでいった。
後輩が残していった重大なミスが発覚したことがきっかけだった。
誰もフォローしてくれる人がいない中で、ひたすら原因追及をし先方に頭を下げる。
そうこうしているうちに出勤時には吐き気を催すようになってきた。
その中で、もう綺麗に辞めるのは諦めなければならないと思うようになっていった。
30代、40代とこの先、斜陽のこの会社で孤独に頑張り続けて何かいいことがあるのだろうか?
とても希望など見出すことはできなかった。

そして、ついに決心して社長に退職の相談へ行ったのが2018年最後の出勤日だった。
あまりにも遅すぎる決断だったとは思う。
そこで社長に打ち明けた。2018年度末、つまり2019年03月末までには辞めたい。
この決心をできたのは、「平成が終わる」という事実も後押ししてくれた。
平成時代の終わり、そして令和時代の幕開け。
この巨大な節目に、自分も新しい生活をスタートさせたい。
ここでようやく、自立することを具体的に思い描くようになっていった。
仙台で妥協するのではなく、やりたい仕事に就きながら東京で暮らしたいという思いは、
職業訓練に通うことを決心したことでより強固になっていった。

そしてその空想が晴れて現実のものとなった2019年秋。

*  *  *

「やりたい仕事をして、その収入だけで一人暮らしをする」
レールの上の人生を往く人なら22歳で達成しているであろうステップに辿り付くのに、
実に8年間の遠回りをした。
一周遅れの人生を歩んでいるという実感はある。一周どころではないかもしれない。
それでも自分なりに相当の紆余曲折があった。
大学院時代もフリーター時代も地元社会人時代も、
各時点で人としてのピースが足りない自分にできるギリギリの範囲のことを求められるステージで、
それぞれ自分に足りない何かを埋め合わせてくれるピースを見つけることができた。
そして今、ようやく自立してもいいと思えるような自分が完成したのである。

普通のレールの上の人生を往く人なら、学部時代にアルバイトを経験して仕事とは何たるかを知り、
就職活動や自己分析を通じて自分にできる仕事、自分に好きな仕事とは何かを知り、
そして22歳になって社会に羽ばたいていき、順当にキャリアを積み重ねていくのだろう。
僕が学部卒業後8年かけて辿り付いたゴールは、普通なら22歳で辿り付いているはずであり、
これから僕が行く職場では、8歳年下の新卒と同じスタートラインに立ったに過ぎない。
言い換えれば、同年代の人が8年積み上げてきたものがある一方で、
僕は転職によってそのキャリアをすべて投げ捨ててしまったのと同じようなものだ。
僕はもう永遠に転職せずその道一本で頑張っている同世代には勝てない。

ここまでようやく辿り付いた。無傷では到底到達できない場所だった。
でもそれは、学部時代の怠惰という借金を返したに過ぎないということもまた、
自覚するべきなのだろうと思っている。4年の借金を8年かけてようやく返し終わったのである。
それでも自分にとってはこの道が最速で最短だったとは思っている。
目の前の道が、自分がなんとかして切り拓いた道であるという自負がある。
この6年間で自分の精神は「自立」というステージに向かって大いに成長したという実感がある。
それを単なる劣等感などというもので投げ出してしまうのはもったいないことだ。

新潟で過ごしてきた6年間は、いわば初心者マークを付けて社会を走るようなものだった。
最低限の衣食住は収入がなくても保障され、高収入でなくとも十分に遊ぶことができる。
本来なら自分のようなアラサー実家暮らしは「パラサイトシングル」と呼ばれ、
忌み嫌われる存在である(最近のネットでは「子ども部屋おじさん」という蔑称もある)。
にもかかわらず、なんだかんだでそれを受け入れてくれた、
アルバイト先、前の勤め先、そしてこれから行く就職先には感謝したいと思う。
おそるおそる社会に出た自分に居場所を与えてくれた人がいたからこそ、
僕は次のステップへと足を踏み出すことができた。

僕は、新潟という土地は決して嫌いではない。
今回はたまたま東京への憧れの方が強かったので上京することを志したが、
本当なら地元への貢献をしたいという気持ちもある。
古町、万代、新潟駅周辺はなんだかんだで活気があって毎日楽しく過ごすことができるし、
近年は太平洋側と違って巨大台風などの災害が来ないという大きな利点もある。
その代わり、車は必須だし冬は厳しいので、住むにはそれなりの覚悟は要る。

東京に生まれた僕が物心付かない頃に新潟にやってきてから、
未就学時代に始まり小学校、中学校、高校と約16年お世話になったのが新潟という場所である。
今回の実家暮らしを含めれば22年ということになる。
自分にとってここはまさに思い出の場所であり、故郷と言うべき場所だろう。

ようやく「一人」として社会に出ることができるようになった僕にとって、
実家という場所は問題が山積している巨大なゴミ置き場のようなものである。
僕は粗大ゴミのひとつとして、ようやく表に出たうちのひとつに過ぎないのである。
本来であれば僕は、そのゴミが片付くまで実家に帰りたくはないし、その権利もないと思っている。
しかし、かといって新潟と決別したいとも思わないし、
何よりも実家には愛すべきいきものたちがいる。

彼らのために、またいつか新潟駅の改札をくぐって「ただいま」と言う日は来るだろう。
いつか来るその日までは、さよなら。

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