#5846

目的と目標


空想

年末年始を迎えるにあたって、やっておかなくてはならない精神的整理がふたつあります。
ひとつは、今年はどんな年だったのかという総括をすること。
一年の出来事に関する記憶を因数分解して、分かりやすい形にまとめる。
例えば今年一番の反省点はどんなものだったのかとか。
あるいは今年一番良かったことはなんだったのかとか。
どんなことができて、どんなことができなかったのか。
どういう風に過ごしてきて、どういう風に過ごすことができなかったのか。

この辺は、自分はブログを持つようになってからなんとなくできてきた部分ではあると思っています。
ただ、それが適切なまとめ方であったかどうかは別として。

もうひとつは、来年どうありたいかという目標を明らかにすること。
何をしたいのか。何をしなければならないのか。何をしてはいけないのか。
従来の自分は、これを考えるにあたって誤っていたことがふたつあると思っています。
まずひとつは、これはブログという慣習がもたらしたことだと思うのですが、
なんだかんだで「来年のことは来年考えればいいや」というスタンスで来たこと。
つまり、年内は今年を振り返ることに集中する。年内最後のエントリーを綺麗に締めるために。
そして、年が明けたら最初のエントリーに年始の思いをぶつける。
そういうスタイルが定着してもう何年も経ってしまっているため、
確かに自分は今まで、年末に来年のことを考えることはとても少なかったです。
ただ例外として2009年だけは振り返ることよりも来年のことを多く考えていたと思いますが、
それは「2010年」という西暦に特別な思い入れを込めていたからにすぎません。

もうひとつは、「来年のこと」を考えるにあたって、
どうしても自然と年末にまとめたばかりの「去年のまとめ」を前提とした方向付けをしていたこと。
例えば、「2007年は何々ができなかったから、2008年こそはそれを達成しよう」
みたいなものです。去年の反省を常に踏まえていたら、新しいことは永遠にできません。

なので今年はあえて、「2020年計画」を「2019年の振り返り」と並行して考えていきたいと思います。
その際に注意したいポイントは、目的と目標がごっちゃにならないこと。
じゃあ「目的」と「目標」って何が違うのか?
まずは恒例の、辞書的意味を見ていくとこんな感じに書いてありました。

【もくてき / 目的】
①成し遂げようと目指す事柄。行為の目指すところ。意図している事柄。「―をとげる」
②〔哲〕意志によってその実現が欲求され、行為の目標として行為を規定し、方向づけるもの。
(広辞苑第七版より)

【もくひょう / 目標】
目じるし。目的を達成するために設けた、めあて。的(まと)。「―を立てる」「努力―」
(広辞苑第七版より)

こうして並べてみるとよくわかりますが、「目標」というのは「目的」がないとダメなんです。
そして両者は距離感の違いがあります。
「目的」は「成し遂げようと目指す事柄」とあるように、最終的に達成したい物事を指しています。
つまり、終点ですね。
それに対して「目標」はそれを達成するために設けた「めあて」に過ぎないので、
まだ終点ではないと考えられます。
サッカーで例えれば、ボールを相手ゴールに入れて1点入れるのは「目標」です。
それに対して、「勝つこと」というのが「目的」になるわけです。

ここで自分のことを振り返ってみると、
従来の「今年の抱負」は「目的のない目標」だったと思うんですよね。
何かいい目標を思いついても、それをする目的というのが抜けていたわけです。
言い換えれば、目標を支える根拠、理由、要因といったものが根本的に抜け落ちていました。
だから大学院時代は「数学を勉強し直したい!」と意識高いことを宣っていたわりには、
一年を通してまったく何も着手できませんでした。
そんな例は他にも無数にあります。恥ずかしいので割愛させていただきますが。

なぜ、大学院時代の自分が数学の勉強をできなかったのか。
それは端的に言えば、それをする必要性がなかったからです。
別に数学を勉強しなくても修士論文は書けたし、趣味においても必要はありませんでした。
数学を勉強したいという意欲の根源というのは結局のところ、
「だって、それができたらカッコいいじゃん!」
という見栄っ張りでしかなかったのです。
振り返ってみれば、未成年時代の目標設定なんてどれもこれもそんな感じでした。
受験勉強もこの範疇に含まれるかもしれません。
だから結局、何もできなかった。何もできずに年だけ重ねていった。

でも、そろそろそういうわけにはいかないのです。
趣味を失って時間を持て余すには、人生はあまりにも長すぎるというのが30年生きての所感です。
このまま本当に人生の目的を見失ってしまったら、あとに残るのは虚無感ばかり。
しかもそれは、年を食えば食うほど取り返しがつかなくなってしまいます。
だからこそ、そろそろカッコつけ以外の「目的」を得たいもの。

その際にヒントになるのは、客観視できるかどうかだと思っています。
客観視するためには、ある程度具体的でなければなりません。
「数学の勉強をする」だけでは、どこまでやればいいのかが不明瞭です。
数学の参考書を1冊読み終わればそれでいいのと、
数検2級を取るのとでは大きな違いがありますが、どちらも「数学の勉強をする」に違いありません。
こういう曖昧な目標設定をすると、往々にして、最小限の努力で済むもので妥協しがちです。

もうひとつのヒントは現実(実力)に即したものであるかどうか。
2018年の目標に「Unityで2Dゲームを作る」というものがありましたが、最初の方で頓挫しました。
目標設定時は、まあノウハウはなくても本を読めばなんとかなるだろう、
というくらいの気持ちでしたが、結局意欲不足で手は出ませんでした。

「意欲の壁」は無視できないくらい高く、そして現実を突き付けるシビアなものだと思います。
自分たちは、ネットに住んでいるとあたかも何でもできるような気がしてきますが、
凡人が実際に何かを成し遂げられるチカラというのは意外なくらい小さいです。
何かをやりたいと思ったときに選択肢が無限にあるような気がするのはネットが見せた錯覚で、
実際に自分ができることというのは、自分ができることしかありません。
その範囲というのは人にもよりますが、
自分の場合は意外なくらい小さいものだと思い知らされました。

そしてこの範囲を無理矢理越えようとしたとき、「意欲の壁」が立ちはだかります。
有意義だと分かっちゃ居るけれどなんとなくやる気がしない。
意欲の壁は自分にそう思わせ、自分を範囲の中に押し込めようとするわけです。
もちろん、新しいスキルを身に付けるには意欲の壁を越えなければならないこともあります。
でも、それができる人とできない人がいるというのはれっきとした事実だと自分は思います。

なので、方向性としては「意欲の壁」を越えない範囲の目標を設定した方が達成はしやすいです。
これなら自分にもできるだろう、と見極めた上で設定する。
それならつまづくことも少なくなると思われます。
「成長」「開拓」「挑戦」といったワードが好きな人には物足りないでしょうが。

それで物足りないと思ったらその目標を設定する必然的な「目的」を設定すればいいわけです。
ここで有用になってくるのは「他人のため」という目的です。
自己満足というのはどうしても限界がありますが、
他人のためにする物事というのは、他人というものが無数に存在する以上限界がありません。
だから、誰かのためにするんだという大義名分を持っている人は強いのだと思います。

いきなり「意欲の壁」を越えるのがいいのかどうかは分かりません。
その人の性分次第であるようにも思いますが、
自分の場合は自分ができることの範囲をまず適切に把握して、
その内部で完結する目標を第一目標、
それを突破したら意欲の壁を越えてみたいと思えるような第二目標を設定するという、
二段構えの戦略が有効なのではないかと思っています。
もちろん、それぞれに「目的」が必要であることは言うまでもありません。

こう考えると、新年の抱負というのは一朝一夕では作れそうにないものであることが分かります。
元日の一日だけに押しつけていたのは間違いだったのかもしれません。
だからこそせめて今年は、消えゆく年末の残り時間に来年の「目的」を考えていきたいと思います。

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