#5900

真剣な話


独り言

2000年代を象徴する漫画に『ヒカルの碁』という作品がある。

*  *  *

主人公・進藤ヒカルは囲碁とは縁もゆかりもない活発な小学生だったが、
あるとき祖父の倉庫で碁盤に触れたことで、1000年前の碁打ちの亡霊・藤原佐為に取り憑かれる。
ヒカルは、希代の達人である佐為にせがまれて少しずつ囲碁の世界に入っていく。
あるとき、ヒカルは同年代で名人の息子である塔矢アキラと出会う。
アキラは、ヒカルの代わりに打った見えない佐為の実力に圧倒され、
初めて同年代に負けた悔しさに燃え上がる。

ヒカルは、自分の実力ではなく佐為の実力に対して真剣に立ち向かうアキラの目に、
少しずつ羨望の眼差しを向けるようになる。
「真剣ってなんだろう……」
「俺もあんな風に碁を打てたら――」
そしてヒカルはアキラの後を追うように、囲碁の世界で真剣に奮闘していくことになってゆく。

*  *  *

真剣になる、というのは日本独特の比喩表現で、ここでは概ね「真面目になる」ことを指すのだが、
さて、真剣になるにはどうすればよいのだろうか。
あるいは、真剣になるということはどういうことなのだろうか。
それは徹底することや、執念を燃やすこととは違うのだろうか。
少し考えてみたい。

作中で、塔矢アキラは生まれたときから囲碁界の頂点に立つ父親が憧れであり目標であった。
そしてプロになることはいつしか「目的」に変わり、そのために闘志を燃やしていた。
アキラにとってプロになるということは、人生において当然通過すべき地点だったのである。

目的意識があるということは、真剣になることの必須条件には思える。
しかし、目的意識があれば自動的に真剣になれるというわけでもない。
やってみたいことがあるからといって、誰もがすぐに真剣になれるとはかぎらない。
目的意識に付随する「何か」が必要のようだ。

人は誰でも、満たされない欲望を叶えようとするチカラを持っている。
しかしそれを発揮する前には、アイデンティティーが立ち塞がることが多い。
つまり、自分はそれをするのにふさわしいのか、そうでないかという判断基準を、
おそらく誰もが持っているのではないか。
そして人の行動力は、その判断基準によって左右されているように思われる。
それをするのが自分らしいという承認を得られている人は、それに対して真剣に取り組める一方、
それは自分らしくないという思い込みを拭い去れないと、人はどこどこまでも真剣になれない。
人はアイデンティティーに対して意外なくらい逆らえないのである。

アキラがプロを目指すべく真剣になれたのは、
囲碁を打っているのが自分らしいという承認を幼少の頃から植え付けられていたからだろう。
囲碁で強くなれば、父親が褒めてくれる。将棋で強くなっても褒めてはくれない。
だから承認を得るために囲碁に夢中になる。
そういったプロセスを経て、少しずつプロ意識が育っていったものと思われる。

つまり、この時点でのアキラとヒカルの差は、生まれ育った環境である。
真剣になるための本当の鍵は、プロになりたいといった目的意識があるかどうかよりも、
そこにアイデンティティーが付随するかどうかが重要であるように思われる。
アキラのような境遇の人は、何も与えられなかった人から見れば幸運に見える。
やはり愛されて育った人は強い。

逆に、何をやっても上手く行かず、罵倒され否定されいじめられ、貧相に育った弱い子どもが、
大人になったら自動的に夢を叶えられるはずがない。
それは、幼少の頃になんの承認も得られなかったからだ。承認がなければ適性も得られない。
何をしても褒められなかった子どもは、何をするのが自分らしいという「心の柱」が無い。
目的意識もスキルも育てられなかった彼らは路頭に迷い、満たされない日々を過ごすのである。

だからそういう人は手っ取り早く他人に認めてもらうことを欲する。
自分一人では「これをするのが自分らしい」という確信を持てないからである。
健康に育てられはしたが親から囲碁に関するアイデンティティーを授からなかったヒカルは、
「アキラに、佐為の実力ではなく自分の実力を認めさせたい!」
という強い動機によって、はじめて目的意識を芽生えさせる。
作中で、ヒカルを育てたのはまぎれもなくアキラである。
当たり前のことだが、あの作品はアキラがいなかったらまったく成り立たない。

真剣になるということはある程度の信頼関係の上に成り立っている。
誰もが誰かから承認を与えられ、それによって目的意識を作り、真剣さを生み出している。
アキラにとってそれは親であり、ヒカルにとってはそれはアキラや藤原佐為だった。
たった一人で何もないところから真剣になれるのは、
よっぽど強い自己承認があるか、それをしないと生きていくことが困難であるときにかぎられる。
同じくマインドスポーツを描いた作品である『3月のライオン』の主人公はそのパターンだ。
主人公、桐山零は幼少の頃に事故で家族をすべて失ってしまった。
そして引き取られたのは、将棋で強くならなければ何も認めてくれない家だった。
だから彼は、生きるために将棋にのめり込むしかなかったのである。
これは、『ヒカルの碁』のヒカルやアキラのような恵まれた境遇とは対照的だ。

「それをすることが自分らしいという思春期以前からの確信がある」
「それをすることで他人が認めてくれるという確信がある」
「それをしないと死ぬ(あるいは、何か大切なものを失う)」
といういずれかの条件を満たし、さらに目的意識を得たとき、人は真剣になれる。
先の作品にそれぞれ当てはめていくとするならば、自己承認によって真剣になっているのがアキラ、
他者承認によって真剣になっているのがヒカル、
そして生存のために真剣になっているのが桐山零である。

真剣になる要因は目に見えない個々人の心構えだとか、精神の話ではない。
真剣になれる/なれない原因というのは、
人間関係や幼少期の家庭環境といった、客観的に観測できる何かによって決定されているように思う。
それは、個人が思っているよりも個人のチカラではどうしようもない。
今日を頑張るためにはどうすればいいのかということを考えたとき、
「明日は死ぬかもしれないと思って頑張ろう」と根拠のない気合いを入れるよりは、
「頑張ったら誰かが褒めてくれるだろう」と思った方が、まだ頑張れる可能性がある。
頑張れないことを正体不明の「精神力」等のせいにしてしまったら、
精神力が何なのかを解決しないかぎりは永遠に頑張れない。

頑張れない人の多くは、否定されることを恐れるがあまり殻にこもっている傾向がある。
そうやって客観的に観測できないところにいたら、誰にも認められないのは当然の話だ。
誰かを信用して行動するためには、どこかで剥き身の自分を空気に曝け出さなくてはならない。
失敗してもいいや、ではなく、失敗したら何かを失う覚悟を纏う必要がある。
誰かと向き合うためには、まずは剥き身の自分を客観視することだ。
それを受け入れることができてはじめて、人はようやく具体的に行動することができるようになる。
夢を本当に叶えたいと思ったら、まずはそれを他人に話してみるべきである。
話し相手がいないのなら、メモ帳に書き殴ってみるのでもよい。
とにかくまずは「それ」を頭の外に出してしまうことだ。
自己承認、他者承認、どちらを燃料に使うにしても、真剣になる第一歩はそれであるように思う。
頭の中だけに秘めた野望は、どんなに緻密でもなかなか現実にならない。

頭の外に出すことによって、
「あんなこといいな、できたらいいな」という妄想が「いつかは必ずやりたい」に変わり、
いずれは「『できなくても仕方がない』では済まされない」というプレッシャーに変わっていく。
それが真剣になるというプロセスであると思う。
真剣になるというのは、気合いを入れたら急になれるという性質のものではない。

趣味も勉強も仕事もあらゆることも、真剣に取り組んでみてはじめて見える領域がある。
逆に言えば、中途半端に取り組んだところで見える領域は入口程度にすぎない。
だから何事も真剣になるに越したことはない。

真剣さは常に現実の中にある。
自分の境遇や自分を認める他者といったものをただ受け入れて自分なりに解釈するのではなく、
自分を取り巻くそれらの現実を客観的・俯瞰的・論理的に整理したとき、
ほの見えてくる自分からゴールへの道のりがある。
それは自分だけに与えられた役割でもある。
それに向き合うことこそが、真剣になる、ということなのかもしれない。

真剣になるということは、徹底することや、執念を燃やすことといった「(集中する)力」ではなく、
誰かに目的意識と役割を与えられた結果生じる行動の方向性であると思う。

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