#5916

自分にできることをする


空想

今から約9年前に発生した東日本大震災。
まさに現代日本の転換点となったあの日、自分は大学の卒業を間近に控えていました。
大学院の受験が直前に終わり、合格発表を待って実家で待機しているところでした。
地震発生当時はお昼寝をしていたのですが、そのときに見ていた夢は忘れません。

そんな激変の時代にM1(修士1年)になった自分ですが、
震災が研究生活にまで影響を及ぼすことはありませんでした。
そんななか、迎えた大学院最初の夏休み。
自分は実家に帰ってゲーム三昧を満喫するつもりでいたのですが、
同じゼミの同期から「被災地へ泊まり込みでボランティアに行かないか」と誘われていました。
具体的に何をするのかを細かく聞いたわけではないのですが、
力仕事であることは容易に想像できました。もちろんそうではなかった可能性もあります。

どうやら教授が提案したらしく、交通費宿泊費は出すからゼミ生みんなで行こう、
という話になっていたようです。
自分の同期で男子は自分の他にあと一人しかいなかったので、その一人から猛烈な勧誘を受けました。
「ボランティアをするというのは結局自分のためなんだよ!」
「良い運動にもなるし現地の人に感謝されるんだから一石二鳥だよ!」
そんなことを言われたような気がします。

2020年現在の自分は、
6年の社会生活を経てようやく少しは他人本位に行動できるようになってきましたが、
9年前の社会経験もない根暗な自分にはそんな精神はこれっぽっちも宿っていませんでした。
だから、ボランティアに行こうと言われたとき、
どこをどう考えても自分がそれをする理由を見つけ出すことができなかったのです。
大事な帰省の時間を犠牲にして得られるものはせいぜい誰かに感謝されること。
それってそんなに大事なのか?
当時の自分はそんなこと分かりようがありませんでした。
なぜなら誰かに救われた経験も、あるいは誰かを救った経験も圧倒的に足りなかったからです。
この世は人と人が支え合っているなんて、まったく信じていませんでした。
今思えばひどい利己主義です。

実は少し行きたい気持ちもありました。
なぜなら、ボランティアという形で参加すれば東日本大震災に少しでも関わった人間として、
後々に生き証人となれるからです。そのステータスはなかなか魅力的でした。
が、それだけのために苦手な肉体労働をするのはどうしても割に合っているとは思えませんでした。

結局自分だけは、ボランティアに行くことはありませんでした。
休み明けは何食わぬ顔をして大学に行きました。

さて、2011年当時の自分の行動は間違っていたのでしょうか。
とんでもなく薄情で、自己中心的なろくでなしだったのでしょうか。
確かに後悔した頃もありましたが、2020年現在の自分はあれは正しかったと思っています。
もちろんこれは一般論ではありません。自分の場合はそうであるというだけです。

先日読んだ本にも「ボランティアはするな」とハッキリ書いてありました。
普段している仕事で発揮できる適性を放棄してまで、適性でない作業に臨むのは非効率的だからです。
一般人が自分の仕事を放棄して現場に向かうよりも、
災害復旧の専門家に募金して仕事をしてもらう方がよっぽど合理的です。
だから、本には「ボランティアよりも仕事をして募金しろ」と書いてありました。
もちろんこれはケースバイケースで、募金が無意味になってしまうようなケースもあるでしょう。
しかし多くの自然災害からの復旧作業には力仕事を伴うことがほとんどであり、
現実問題としてそこに体力のない者を送り込んだところで、何も役に立ちません。
逆に言えば、力仕事が得意なブルーカラーは、どんどんボランティアに参加するべきです。

先週末に参加したオリエンテーションにもこんな話がありました。
「短所をどうにかするよりも、長所を伸ばした方が人生は豊かになる」
いわく、人の短所は生まれてから小学生までの間にほとんど凝り固まってしまうので、
大人になってから克服するのは困難なのだそうです。
だから、それをどうにかしようとするよりも、自分の長所を正しく把握して、
長所をより伸ばしていく方が社会的にも成功を収めやすいという話でした。
自己啓発書を読んでいると同じようなことを言っている人はたまに出会うので、
これはオリエンテーションの司会者(人事部)だけの持論ではないように思います。
「不得意なことに手を出す必要はない」というのは、
作家の小池一夫さんも言っていたことです(#5751『人の世の歩み方』2019年09月18日)。

思うに、この社会は「苦手なこと」を頑張って克服しても、それほど褒められません。
克服したらやっとプラスマイナスゼロの地点に立てるだけです。
それは、ときとして自己満足の範疇に収まってしまう場合すらあります。
その代わり、得意なことを特化した人を褒める文化は、しっかりと根付いてきているように思います。
SNSの評価システムはまさにそうだし、
この世の仕事は各分野に特化したものが無数に細分化されています。
だから、改めて思うんです。
この世は「自分ができることをすればいい」という、シンプルなルールでできているのではないかと。
これはいわば令和時代ならではの社会通念なのではないでしょうか。
50年くらい前の世の中を自分は知りませんが、年配の話を聴くかぎりでは、
きっとこんな極端な一点特化ばかりの人では許されなかったのではないかと思います。
誰もが同じようなスキルを身に付け、同じような仕事をしていたようなイメージがあります。
だからこそその脱却のために「ゆとり教育」が生まれたのではないでしょうか?

東日本大震災もコロナウイルスも何でも、自分ができることをすればいいと思うんですよ。
お金がある人は募金すればいいし、体力がある人はボランティアに行けばいい。
専門スキルを持っている人はその人ならではの役割があることでしょう。
何も持っていないならそれはそれで他人を気遣うことができればその人なりに十分であり、
世間はその人にそれ以上は求めていません。
コロナウイルス騒動に関しては、自宅待機することだって立派な社会奉仕です。

これは別に災害に限りません。例えば絵が描ける人がチヤホヤされているからといって、
自分も絵を描かなければ何も輝けないなんて決まっているわけではありません。
絵が描けない人は絵が描けないなりに何かできることがあるはずで、
自分が「できないこと」に必要以上に苦しむ必要はないわけです。
それでもそれが必要だと思ったら努力して身に付ければいい話ですが、
どうしても適性がなくて絵が描けない人だって相当数いるはずです。

自分が苦手なことは必ずそれに適性のある他人が存在するのだから、その人に任せておけばいい。
その代わり、自分が他人より得意なことは責任を持って取り組む。
その姿勢が巡り巡って、社会の相互扶助へと繋がっていくのではないでしょうか。

もちろん、9年前の自分が、体力も無ければお金もないゴミだったことは紛れもない事実です。
1,500円ほど募金はしましたが、許してくれなんて言えません。
ただ、9年前の自分しかり、子どもは往々にして未熟であり相互扶助の環に入っていけません。
しかしだからといって社会の恩恵を何も与えないのは酷というもので、
その辺の損得計算は短絡的にではなくもっと長期的視点を持つべきなのかもしれません。
もちろん、恩恵を受けるだけ受けて何もしないクズにはムチを与えるべきなのでしょうが、
世の中には資源をたくさん持っている人もいれば、
精一杯生きてもちょびっとしか持っていない人もいる。
「誰かの為に何かをする」ということが
必ずしも常に等価交換であるというわけではないということは、肝に銘じておきたいところです。
その上で、自分ができることをする。余裕が出てきたら他人に分け与える。
自分ができる範疇を他人に期待しない。逆に、他人ができる範疇を自分もできると安易に思わない。
それでも社会は許してくれるんです。きっと。

綺麗事かもしれませんが、これは現代を生きていくうえで割と大切な心構えであるように思います。

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