#5927

本物の意識高い系


空想

「意識高い系」というと、大言壮語的な若者を揶揄するような意味合いで使われますが、
自分は意識は低いよりは高いほうがよっぽどいいと思っています。

もちろんあまりにも非現実的な言動がよろしくないのは当たり前のことですが、
実際には言動のあとに行動がついてくるというケースも少なくありません。
誰かに「○○をやってみたいと思っているんだ」と話したからこそ、
本当にやりたくなるということもあるでしょう。
だから大言壮語がすべて悪いというわけではないと思います。
叩かれる意識高い系は押し並べて、虚言癖を持っていることが多いです。
するつもりもないのに、もしくは明らかにできないのにただ見栄のだけためにそれを話す。
それは意識高い系というよりは単なる嘘つきであり、
自己顕示欲に支配された可哀想な人というだけの話です。

自分は上京以来、こと仕事に関しては平均よりも意識高めを保ちつつあります。
生業にしているのはPHPというプログラミング言語だけなのに、
上司に「Pythonもやってみたいです」とか話してしまったり、
同僚と「フルスタックエンジニアになれたらカッコいいよね」なんて話をしています。
これは、上京以前の卑屈な自分と比べればかなり意識が変わったと思います。

そう振る舞っているうちに、周りからは期待されるようになりました。
だから今も、上司から今までの平凡なレベルには到底収まらない課題を渡されて奮闘しています。
空き時間があればPythonの勉強もしているし、最近はLinuxも少しいじっています。
毎日時間を割いて同僚にPHPを教えています。

誰かに期待されているという自覚が芽生えると、
不思議なことに「本当にやってみよう」と心から思えたりするんです。
自分に不足している点が見つかると、これは恥ずかしいから早く修正しようと本気で思える。
これはある意味での良い循環、ポジティブスパイラルとでも言うべきでしょうか。

「自分らしさ」は他人に与えられるものであり、
そして他人の自分に対する見る目を変えられるのは常に自分の行動であり、
自分の行動の根源にあるのは目に見えない「意識」です。
短絡的に考えれば、意識の高さ低さは、自分らしさを形作る根源になっているのかもしれません。

ところで、本当に偽者の「意識高い系」(つまり揶揄される人たち)というのは、
実は意識の低い人だと自分は思っています。
何もやる気になれない、あれもこれも面倒くさい、人生の方向性が定まらないから、
「あれもやってみたい、これもやってみたい」と理想を語る範囲ばかりが広まっていく。
実際にやるのは面倒くさいので、空想だけで完結したいからこそ、
嘘をついてまでスケールの大きなことを吹聴したりしてしまうわけです。
そして、一度偽者の自分で取り繕ってしまうと後に退けなくなってしまう。
周りからは「あの人は何やら大きなことをしようとしている」というイメージが定着してしまうし、
それがそのまま自分らしさ、つまり「自分はこうあるべきである」というハードルを作ります。
しかし、その人が現実にできることは遙かに小さなことです。
結果としてその人は何をするにも行き詰まり、嘘を付き続けるしかないという地獄に突入します。
自分も趣味面では半ばこれに陥っているような気がしないでもありません。

こう考えると、言動に行動が伴うか否かでけっこう変わってくるものですね。
自分も今もいつマイナスの方に転んでもおかしくない状況ではあるので、
うっかりそっちに飲み込まれないように気を付けていきたいところです。
いま、自分に行動が伴っているのは同僚の期待に応えたいという気持ちに依るところも大きいので、
現場に飛ばされて同僚と離ればなれになってからが勝負のような予感がします。
ひとりぼっちになっても、行動力を維持できるのか。あるいは新しい仲間を見つけられるのか。

逆に言えば、趣味面で行き詰まっているのは分相応に期待してくれる仲間がいないからかも。
残っているのはサイト運営や動画制作で成功した輝かしい過去だけで、
それらは自分に、「過去よりも大きなことをやってみせろ」と強要してきます。
ですが、まずそれに意欲が伴っていない現状では無理があるというものです。
この辺は、まだまだ糸口が見えてこない問題です。

なんにせよ、仕事も趣味も、分相応に意識高くありたいものですね。

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