#5928

目的を見失っていた日々


空想

自分でこのブログの過去記事を読み返していたら、
ちょっと弁解する必要性のある記事を見つけてしまったのでそれについて書いておきます。
今月初頭、東日本大震災が起きた年にボランティアに誘われた話を書きました
#5916『自分にできることをする』2020年03月01日)。

要約するとこんな感じです。
2011年当時、大学院生だった自分は同じゼミでボランティアのために東北に行くことになりました。
自由参加だったのですが同じゼミ生からは熱心に参加を勧められていました。
が、結局自分はいろいろ考えて行きませんでした。その行動は正しかったのでしょうか。
2020年現在からしてみれば、それは正しかったと思っています。
なぜならヒョロガリで力仕事が苦手な自分が東日本大震災の災害現場に行っても、
チカラになれることは少ないからです。
不適応なのに現場に行って足手まといになるくらいなら、募金でもしていた方がよほど有意義です。
少し前に読んだ本でも、「自分の得意なことに取り組む時間を投げ捨ててまで、
ボランティアに勤しむのは効率が悪い。それなら自分の得意分野でお金をきちんと稼ぎ、
そのお金を災害現場で働く人にフィードバックした方が社会全体としてはよほど有意義だ」
というような話が書いてあって、自分はこれには同意します。
つまるところ、世の中は自分ができることをすればいいのであって、
自分が苦手なことは、それを得意とする他人に任せておけばいいのです。
その代わり、自分が得意なことに関しては責任を持って取り組みたい。
そんな姿勢がこれからは求められるのではないでしょうか。

というような内容の記事だったと思いますが、
改めて読み返すとひとつ、大きな違和感があります。
それは2011年当時の自分が、世間的には無職に位置付けられる「学生」という立場だったことです。
今現在のように働いているのであれば、わざわざ不得手なボランティアをするよりも
自分の勤め先で専門スキルを発揮することの方が社会全体から見て有意義というのは確かでしょう。
その点では「自分にすることをすればいい」という主張はまあまあ筋が通っていると思います。
でも、2011年時点の自分はまだ働いていません。
要は、社会から見れば持て余している存在であるわけです。
にもかかわらず、ボランティアをも放棄して帰省を優先しているというのは、
そもそも社会参加以前の問題であり、正当化の余地はありません。
面倒くさかったから行かなかっただけです。
「学生がボランティアをしないのは悪である」などと言うつもりはありませんが、
この文脈において、自分がボランティアをしなかったことと、
社会人としての「自分にできることをすればいい」という立場の話は、
繋がっていないような気がします。

当該記事に書いた「自分にできることをする」という結論は、
自分が2019年に読んだ本や、社会的弱者あるいは自分自身を顧みて行き着いたひとつの気付きです。
かつての自分も含む、いわゆる生きづらさをどう乗り越えるかという問いに対する、
自分なりのひとつの答えでもあります。
だから、それ自体は否定したくありません。
が、ボランティアのくだりはそれとの関連性はちょっと薄かったかなと反省しています。
今更弁解の余地もないのですが、読み返していて気になってしまったので弁解記事を書きました。

まぁあれですね、学生当時の自分は今の自分が思っているよりも遙かに、
きっと何も考えないで行動していたんでしょうね。
とにかく保守的、視野狭窄的で社会貢献なんて考えもしなかった。
かといって、自己のスキルを高めることに関しても消極的で結果として何も積み上がらなかった。
ホント、罪深い時代を生きたものです。

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