#5971

意欲の話


独り言

意欲的になれない。
これが二十代後半から長きに亘って自分を苦しめている悩みである。
ネガティブにならないようにする心構えは、この五年間でかなり学んできたけれども、
プラスマイナスゼロの地点からプラスに持っていく方法はどうにも分からない。

かつては意欲というものはあって当たり前のものだった。
ところが、あるときからそれは当たり前ではなくなった。
それは加齢のせいなのかもしれないと思ったが、年上でも精力的に活動している人はいる。
なので僕は意欲的になれないのは年齢そのものではなく体力的な問題だと結論付けた。
しかし、それなら常に意欲的になれないいまの状態は、常に体力がないということになる。
平日は仕事で体力が消耗しているという言い訳は成り立つ。
しかし、たくさん食べて12時間寝て、迎えた土曜日の朝が不健康で体力不足なのかと言われると、
それはちょっと言い訳としては苦しい気がする。
いまは残業も少ないから、平日の疲れが土曜日にも続いているとも考えにくい。
土曜日の朝だろうと、仕事終わりであろうと、意欲の無さは普遍的に存在する。
健康的であること、一定程度の体力を持っていることは、
意欲的に活動することの「前提条件」ではあるかもしれないが、
それそのものが真なら
意欲的に活動できることも真になるというような「十分条件」ではないような気がする。
前提条件を満たした上で、さらに何か必要なものがある。
それがおそらく昔の自分にあって、今の自分に足りないものなのではないか。

そうやって考えていた矢先、新宿駅に向かう電車の中で雷に打たれたように突然ひらめいた。
意欲というものは、他人に与えられるものなのではないだろうか。

ここでいう他人とは、広く「今の自分」以外を意味する言葉であり、他人が生み出した何かをも含む。
僕たちは社会動物だから、お互いに影響し合ってこそ行動しているのだ。
甲子園球場に連れられた子どもがマウンドの球児を見て野球選手を志したり、
すばらしい映画作品を観たことがきっかけで監督になることを決意したり、
病から救ってくれた医師への恩が自分自身も医師になるきっかけになったり。
他人のなにげない一言、なにげない作品、なにげない姿勢が、誰かの未来を変えうる。
そのエネルギーこそが、意欲なのではないだろうか。

つまり自分に欠けていたのは心構えや体力ではない。他者とのつながりだったのである。
振り返ってみれば、かつてのさまざまな活動も元を辿ればそこには自分ではない「誰か」がいた。
2002年にゲーム&ウォッチの解説サイトと巡り会ったから自分もWebサイトを持ちたいと思い、
それがブログ開設へと繋がった。
海外の名も無き動画投稿者と出会ったからゲームのやり込みを始めた。
メテオスランキング大会管理人との出会いがあったからピクチャレ大会を作った。
ここでの「他人」の立ち位置は、決して自分が他者承認を満たすための役者ではない。
別に自分は他人に認められたくて行動していたわけではないし、
先人たちが自分を認めてくれたわけでもない。

僕は意欲というものは、大まかに「他者承認を満たすためにする行動」と、
そうでない「自己満足の行動」に分かれると思ってきた。
そしていまの自分は、その後者の意欲が枯渇してしまったからこそ行動できないのだと。
自己満足の行動の源泉は、人が生まれながらにして持つ固有のステータスだと思っていた。
他人を見れば、明らかにそれが大きい人と、小さい人がいる。
僕はたまたま自己満足で行動できる器量を持ち合わせていないのだろうと。

しかし、その考えは今日改めなければならない。
まず、当たり前だが他者というのは自分の欲求を満たすためだけに存在するわけではないということ。
今までの自分は、他者に影響を与えたいという気持ちが先行し過ぎていた感がある。
ある種の支配欲とでも言うべきだろうか。しかしそれでは永遠に行動はできない。
他者に与えたい何かを、自分が持っていないのだから当然である。
だからまずは、自分が他者から何かを与えられる立場であることを思い出さなければならない。
「自分が行動できないのは誰も自分を認めてくれないせいだ」
というのはとんだとばっちりである。

そして、自己満足の源泉は、これも結局他人に依るものだ。
生まれ持った固有のステータスなどではない。
例えば、朝起きてから夜寝るまでを牢屋の中で過ごし何も与えられない囚人がいたとして、
彼はある日突然「絵を描こう」とは思わないだろう。
それは牢屋の中でなくても、
昨日や先週とまったく同じようなものに触れているだけの生活をしていても同じことである。
あまりにも刺激が少なければ、何かをやろうと思わないのは当然のことだ。
だから、意欲を引き出そうと思ったら新しい何かに触れるのが良い。

年齢が重なってくると、どうしても過去の栄光の記憶が行動を阻害する。
「あれを越えるモノでなければ満足できない」「あれ以外のジャンルには触りたくない」
保守的な心こそが、意欲的になれない原因なのかもしれない。
そう考えれば、体力や加齢による身体の衰えと意欲に因果関係がないことにも説明が付く。
新しいモノに触れてみる勇気が、もしかすると意欲の元になるのかもしれない。
古く錆びてしまった過去の栄光を、時には切り捨ててみる覚悟も必要だ。

他人に認められたいが他人を認めることはないという姿勢が、
自分を精神的に孤立させていたのではないか。
それこそが近年の自分の無趣味化、無気力化の根本原因なのではないか。
だとしたら、強く内省する必要がある。

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