#5979

負け組の話


独り言

僕は自分のことを、生きる意味を与えられなかった哀れな人間だと思っている。
なぜなら、僕の行動原理はそのほとんどが
「他人に認めてもらいたい」という欲求に依るものだからだ。
だから、他人がいなかったら人生そのものが立脚しない。
他人に少しでも否定されるだけで自分という存在は脆くも崩れ去るのである。
だから、いわゆる自己満足で物事を楽しめない。
大人になってから、ゲームも漫画も映画も小説も、自分一人では楽しめなくなった。
特にゲームに関しては、いわゆる対戦型ゲームがまったく楽しめなくなった。
勝っているうちはいいかもしれない。しかし負ければ自分のすべてを否定された気分になる。
自己肯定感のような柱になるものが心の中にないので、勝ち負けに大きく心を揺さぶられてしまう。
自分の根本にある欠陥は「負けず嫌い」という名前が付けられているが、
今のところそれへの対処方法は見当たらない。

他者承認を得たい。とにかくそれが欲しい。
自分の欲望を鑑みると、自分はそのために生きている気がする。
しかしそれが満たされることはない。
なぜなら、他者承認を満たすための努力ができないからだ。
インターネットを見渡すと、他者承認を満たすために不断の努力を続けている人がいる。
僕はとてもそういう「特別」な人にはなれそうにない。
かといって、自分がほんの少し行動しただけで褒めてくれる人なんて周りには存在しない。
結果として、人生は行き詰まりに到達する。

もっと正確に言えば、今の僕は「手っ取り早く他者承認を得たい」のである。
これはとても厄介だ。長期的に「いつか他者承認を得たい」という心構えであれば、
今頃とっくにいろいろな努力ができていると思う。
しかし実際にはそうではない。
それどころか心の奥底では、努力せずに他者承認を得たいと思ってしまっている。
しかし、タダで「いいね」をくれる人なんてそういない。それには相応の信頼関係が必要である。
この現実は、自分からLINEをアンインストールし、Twitterと決別した自分には重くのしかかる。
相互承認の基本は信頼関係であり、それがなかったら何も始まらないのである。
どんなに内省し、反省し、今ようやく人の気持ちを慮ろうとしても、過去は変えられない。
デジタル化された人間関係は、残酷なくらい鮮明に過去の過ちの爪痕が残っていて、
更正した自分が前に進むことを阻んでくる。

いまこんな風に思うのは、ネットがあればこそなのかもしれない。
孤独になることと疎外感を感じることは違う。
本当にひとりぼっちだったら、疎外感を感じることはないはずなのだ。
しかし現実には、ものすごい疎外感に四六時中痛めつけられ、
誰でもいいから自分を認めてほしいと泣き叫んでいる心がある。
それは手に届くところにインターネットがあるからだと僕は思う。
認められている誰かを見ると、自分の無力を突き付けられ首を締め付けられるような感覚になる。

自分の他者承認を満たすためにできることは何か、いろいろ考えてはみたけれど、
怯えながらも最初の一歩を踏み出したところで、評価してもらえないことは明白である。
僕は、僕を評価する「他人」を心から信用することができなくなっている。
いや、それ以上に自分が生み出すものにまず自分自身が信用できていない。
むしろ、自分が生み出すものはクオリティが低く、そう簡単には認められないという確信がある。
それは今までの諸々の経験がそうさせているのかもしれない。
今まで培ってきたものを否定され、罵倒された傷跡はあまりにも深い。
この思い込みを払拭できない限り、僕はあらゆる行動ができない。
そうして、殻の中で思うのだ。こんな人生になんの意味があるのだろう、と。
他者承認を満たすためだけに生きているのだとしたら、それはとても虚しいことなのではないか、と。

他者承認を満たしたいが行動ができないという行き詰まりから抜け出せず、
他者承認に餓えたまま残りの50年を生きなければならないとしたら、
それはもう地獄としか言いようがない。それでも自分は生きなければならないのだろうか。

もし相応の信頼関係を持っていて、自分もネット上で自由に表現できるスキルを持っていたら、
こんな悩みは無かったのだろうか。僕はそうは思わない。
100人に認められたら、101人に認められたくなるに決まっている。欲望に際限などない。
むしろ今、僕は昔認められた記憶があるからこそ、それと現実との落差に苦しんでいるのである。
一度100人に認められたら、99人以下に認められても満たされなくなる方が問題だ。
こうして一生、他者承認に飢え続けることになる。

自分を認めてくれない人の相手をするだけ無駄だ。
それよりも認めてくれる人のためにこそ頑張ろう。
あの日、確かにそう誓ったはずなのに、ここにきて心が揺らいでしまっている。
だいたいこういうことを考えるときは対戦ゲームで負け続けたときだったりする。
自分の中にある「負けず嫌い」は、これまでの反省を吹っ飛ばすくらいのチカラはあるらしい。
そもそも対戦ゲームに着手するのも、誰かを越えたいという欲求があってこそだ。
いま僕にとってゲームは本当の意味で悪い中毒性しかもたらさない娯楽になりつつある。
ゲームは、承認欲求に餓えている人はやるべきではないのかもしれない。

僕はあれから、自己防衛策として自分を否定するかもしれない人には一切目を向けず、
自分を肯定してくれるかもしれない人だけを見るように努力してきた。
そうやって自分の中にある闇に目を向けないようにしてきた。
ところがそれは結局、臭いものに蓋をしていただけだった。
勝負に負けたり、仕事などで失敗したり、他者に否定されれば、闇はすぐに自分を覆い隠す。
そこに自分の脆さがある。生きづらさがある。

メンヘラは大分克服したと思っていたけれど、それは「克服した」と思い込んでいただけで、
闇を打ち消したわけではない、ただ直視していなかっただけだったらしい。
それがこの新型コロナウイルスと、対戦ゲームに触れることで久々に露呈してしまった。
対戦ゲームは避ければそれで済むが、新型コロナウイルスはどうしようもない。
僕はこれからも都会の片隅で他者承認に餓えて少しずつ消耗していくのだろうか。
そんな人生は、耐えられない。

そもそも実家でも閉塞感に限界を感じ、上京に希望を抱いていたのがこの転職活動の始まりだった。
その結果がこれだなんて、あんまりじゃないか。

あまりにも無気力で、自分をどうにかしようとする気概がない。
人生を終わらせる勇気もどうせないのだろう。
それにしても、こんな世の中を歩むくらいだったら、

……生まれてくるべきではなかったと、心の底から思う。

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