先日、自分はもじぴったんで負けた腹いせに、
自分の人生にある欠陥、ある種の分かりやすい絶望について書きました。
それはざっくり言えば
「自分は他者承認でしか動くことができず、しかし動かなければ他者承認を得られない」
といった行動原理の矛盾についての発見でした(#5979『負け組の話』2020年05月03日)。
ところが今日ふと過去記事を遡っていたら、
これを過去の自分がハッキリと否定している記事がありました。
そこでの自分は、「人生とは自分が生きていて楽しいと思える瞬間のためにこそある」と言い、
欲望に右往左往させられているかぎりは自分を制御していることにはならない、
とまで言っています(#5855『振り返った思い出 2019-b』2019年12月31日)。
同じ自分なのに、こうもハッキリと対立しているのは自分のことながら面白いです。
まるで大晦日の自分が、ゴールデンウィークの自分を叱っているようにも見えます。
果たしてどちらが正しいのでしょうか。
ゴールデンウィークの自分が自分の人生に関する「絶望」に気付いたのに対して、
大晦日のあの日、大宮駅で頭の中に降りてきた着想は人生の「希望」そのものでした。
これらは基本的に別々のもので、それぞれが「人生」という大枠の中で共存しています。
つまり、他者承認がないと動けない自分も確かに存在するし、
生きていて楽しいと思える瞬間を追求できる自分も確かにあるわけです。
どちらかが正しかったからといってもう一方が間違っているとは限らず、
それぞれは独立しているのだと思います。
しかし、こうして対立構図を客観視してみることで綻びも見えてきます。
例えば絶望の方は、「自分は他者承認でしか動くことができない」と言い切っているけれど、
それは果たして正しいのでしょうか。必ずしもそうとは限らないような気がします。
確かに幼少期からの自分を遡って考えると、「誰かに反応してもらえる」
ということが大きなモチベーションになっていたのは事実かもしれませんが、
なにもそれが記憶のすべてと決まったわけではありません。
なので「他者承認でしか」と決めつけるのはちょっと言い過ぎかなと。
同様に、生きる目的を「楽しいと思える瞬間」だけに決めつけてしまうのも言いすぎかなと思います。
だからまぁ、なんというか人生は絶望だけじゃなければ希望だけでもない、
そう簡単に決めつけられるものではないんだと思わせられます。
大晦日にあの記事を書いておいてよかったと思います本当に。
膿を絞り出すために絶望を書き残すのも大事かもしれませんが、
希望を見出したときにそれを書き残しておくことも同じくらい、
いやそれ以上に大事なことなのかもしれないと改めて思いました。
当たり前かもしれませんが、人は一枚岩ではありません。
同じ人でもたいていいろいろな考え方を持っていて、
長く生きていてずっと完全に一貫している人はそう多くいません。
こういうと「二枚舌を肯定するのか」と批判する人がいるかもしれませんが、
二枚舌というのは自分の主張と違うことを(直後に)嘘を付いてまで言うことを揶揄した言い方で、
人の考え方が時と共に移ろうことを否定する言葉ではありません。
考え方が変遷していくことそれ自体は、自分は悪いことではないと思っています。
むしろそれが成長の証なのではないかと。
ブログは、その成長過程を書き残すという意味ではもしかすると有用なツールなのかもしれません。
その代わり、過去記事を引っ張り出されて間違った思想を指摘されるリスクは常にありますが。
ともあれ、自分は今後も希望も絶望もうまく書き残していって、成長の糧にしていく所存です。