岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013年)を読みました。
フロイトやユングと並び、「心理学の三大巨頭」と称されるアルフレッド・アドラー。
彼の心理学である「アドラー心理学」を、
哲人と青年の対話形式で説明することを試みる本です。
アドラーは、「人はどうすれば幸せになれるのか」といった問いに、実に明快な答えを提示します。
100年先行していたと言われるアドラーの思想はどのようなものだったのでしょうか?
* * *
「世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる」
アドラー心理学ではそう主張する。
世界が複雑に見えるのは、「わたし」の主観がそうさせているのであって、
それが幸福に生きることを困難にしている。
世界をシンプルに見るためには、過去に原因を求めてはいけない。
例えば、親に虐待されたから不幸だというのは原因論と呼ばれ、アドラーはこれを明確に否定する。
なぜなら仮に原因論が正しいのなら、虐待を受けた人はすべて不幸でなければならないが、
現実には不幸になっていない人も少なからず存在するからだ。
トラウマなるものは存在せず、その人が不幸を感じるのは、
その人が何か目的があって自分に利するから不幸を選んだのだ(目的論)。
人は今日から変わることができる。
変われずにいるのは、自分自身が新しいライフスタイルを選ぶ勇気が足りていないからだ。
例えば、小説化になることを夢見ながら小説を書かない人がいる。
それは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいからだ。
そうすることによって、自分には才能がある、時間さえさればできる、
環境さえ整えば書ける、という可能性の中に生き続けることができる。
しかし、そうしている限りは人は一歩も前に進まない。
仮に応募して落選すれば新しいライフスタイルを選び直すことができるのに、それもできない。
アドラー心理学は今日からでも人は変われると説く。しかし人は変わることが難しいことがある。
それは、自分のことを好きになれない場合である。
アドラー心理学では、人間の悩みは、すべて対人関係の悩みであると断言する。
例えば劣等感。自分自身の理想と比較して生まれる劣等感は悪くない。
それは努力や成長のきっかけになる。
しかし他者に対して劣等感を感じるというのは対人関係の軸に「競争」を持ち込むことであり、
これをしているかぎりは人は不幸から逃れられない(劣等コンプレックス)。
劣等感と劣等コンプレックスは明確に異なる。劣等コンプレックスに陥らないためにも、
他者は「同じではないけれど対等」であるということを理解しなければならない。
また、アドラー心理学では、いわゆる承認欲求を否定する。
なぜ人は他者からの承認を求めるのか。それは賞罰教育の影響だという。
他者というのはあなたの承認欲求を満たすために存在しているわけではない。
と同時に、あなたも他者の承認欲求を満たすために存在しているわけではない。
承認欲求とは、要するに他者から嫌われたくないという欲求であり、
それは自由とは対極にあるものだ。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、
承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。
すなわち、自由とは、他者から嫌われることなのである。
対人関係の悩みを乗り越えるにはどうすればいいのか。
アドラー心理学ではその入口として「課題の分離」を提案する。
自分の問題は自分の問題として片付け、他者の問題には踏み入らないという考え方である。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込んだり、
あるいは自分の課題に土足で踏み入られることによって発生する。
自分にできることは自分が信じる最善の道を選ぶことであって、それ以上はない。
同時に、その選択について他者がどのような評価を下すかは他者の問題であって自分は関係ない。
「自分がこれだけ頑張ったのだから他者に認められたい」と見返りを求めるのは、
課題の分離の考え方からかけ離れている。
人は見返りを求めてはいけない。そこに縛られてもいけない。
そしてアドラー心理学が目指すのは「共同体感覚」である。
それは他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることである。
人間にとって最大の不幸は自分を好きになれないことである。
その現実に対して、アドラー心理学ではきわめてシンプルな解決方法を提示する。
すなわち、「わたしは共同体にとって有益である」という意識を持つことだ。
誰かの役に立っているという「思い」が自分に価値があることを実感させる。
ここで重要なのは現実的に客観的な貢献をしているかどうかは関係ない。
主観的な感覚として、きっと誰かの役に立っていると思えればそれでいいのである。
つまり、幸福とは“貢献感”なのである。
幸福のために、自由のためには、過去や未来ではなく、「いま、ここ」の人生を大切にしよう。
永遠に応募できない小説家のように未来の可能性に生きたり、
トラウマに苦しむ少女のように過去の記憶に生きることは、人生に嘘を付くようなものだ。
そうではなく、「いま、ここ」を真剣に生きる。それだけで人は自由になり幸福になれる。
「世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる」
という主張には、そういう意味が含まれているのである。
* * *
以上ざっとまとめでした。
勘違いされないようにいちおう書いておくと、アドラー心理学は心理学ではありません。哲学です。
カウンセラーを受けようとして、アドラー心理学を勧める心理士はいないと思います。
トラウマなんて無いよ、などと断言する心理士とは出会ったことがありません。
でもまぁ、今回はそういう話ではないのです。
今回のこの『嫌われる勇気』、正直自分としてはかなり衝撃を受けました。
幸福とはなにか、自由とはなにかということについて、
斬新な視点から答えを提示するものです。嫌われることが自由なんて、考えたこともなかった。
でも、これはうーんとうなる提言です。唸らざるを得ない。
確かに自分は他人に嫌われたくなくて、行動が縛られていた節がある。それは否めません。
そこから抜け出すためにはどうすればいいのか、真剣に考えたことはなかったけれど、
そもそも「他者承認」そのものが不要だなんて思いもしませんでした。
アドラー心理学を実践するには、「それを知るまでに生きてきた年数の半分」必要と言われています。
つまり自分がこれを体得するのは45歳ということになるでしょうか。
できればあと15年早く知りたかったですね。
……でも、今までの自分は承認欲求があってこそとも言えるので、
承認欲求を否定するアドラー心理学を肯定することは人生を否定することにもなります。
しかしアドラー心理学は「いま、ここを生きよ」と言う。過去に生きてはいけない。
ここは自分の基礎的な考え方に相反するところであり、理解が難しいところだと思っています。
ただ、今までの自分を形作ってきた考えの中には、アドラー心理学に近しいものもあります。
例えば自分は近年、自分を認められる人のためにこそ頑張ろう、と決心を新たにしました。
『嫌われる勇気』にも、こんな一節があります。
ユダヤ教の教えに、こんな話があります。
「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。
あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。
そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。
残りの7人は、どちらでもない人々だ」と。
このとき、あなたを嫌う1人に注目するのか。
それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスをあてるのか。
あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。
人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界」を判断してしまいます。(p.246)
ここで登場する「ユダヤ教の教え」は、この本が出版する3年も前に、
自分がTwitterで出会った言葉でした。たしか、ブログでも何度か言及したと思います。
この言葉と出会ったからこそ、自分は自分を認めてくれる人にこそ頑張ろうと思えたのでした。
それは、かなり大きな前進だったと思います。しかし、アドラー心理学はさらにその先にあります。
なにしろ他者承認は要らないというのですから。
ここでいう他者承認とは、「他人からの称賛を得たいがためにする行動」というニュアンスです。
これは、他人が称賛してくれなかったり、してくれなさそうだったり、
労力に対して称賛が割に合わなくなってしまうと行動が抑制されてしまうリスクがあります。
だから、アドラー心理学は「報酬」は「他者の課題」であるとして、
自分はそれに土足で踏み入ってはいけないと警鐘を鳴らしているわけです。
「自分がこんなに頑張ったのに評価してくれないのはおかしいじゃないか」といった類のものです。
承認欲求に囚われていると、そういう考えを捨てることができない。
何もアドラーは芸術活動を否定しているわけではありません。
ただ、他者からの見返りのために行動するのはリスキーだと言っているのでしょう。
そこは客観的に見える行動は似ているようで、主観的には根本的に違ってくるように思います。
ただその違いを自分が実践するにはまだまだ時間がかかりそうです。
『嫌われる勇気』は間違いなく生活の指針となる一冊となってくれそうです。
嫌われたくない、という思いが爆発しそうになったら読んでみるのもいいのかもしれません。
果たして自分は15年後の2035年、アドラー心理学を体得しているのでしょうか。
なお今回の読書録は、新型コロナウイルスの影響で大幅に遅れました。
読み始めから読書録執筆まで実に2ヶ月以上かかっており、
要約を書くために2周読むことになりましたが、若干要約が不十分であることはご了承ください。
いちおう順番としてはこれが2020年03月分の読書録となるので、
次に読むのは04月分です。でももうすぐ05月も終わってしまいそう……。さてどうしたものか。