#6043

愛の探し方


備忘録

岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社、2016年)を読みました。

「自由とは他者から嫌われることである」。
まさに「劇薬」とも言える、
刺激的で明快な哲学を提唱する100年前の心理学者アルフレッド・アドラー。
その思想の案内書として書かれたのが「勇気の二部作」と言われる本シリーズで、
今回は前著『嫌われる勇気』(#5998『自由人の生き方』2020年05月22日)に引き続き、
2作目にして完結編となります。

前作では、主に自由とは何かというテーマに沿って、
アドラーが説く「目的論」「課題の分離」「人生の課題」「共同体感覚」
といった各専門用語についての説明がありました。
それに対し、今作はそのうち「共同体感覚」をゴールとした幸福論に終始し、
またアドラーを如何にして実践すべきかということが指南されています。
前作がアドラーの全体像を掴むための「地図」だとしたら、
今作は実際に一歩踏み出すための「コンパス」とも言える位置づけとなっています。
さて、アドラーはいったいどうすれば幸せになれると言うのでしょうか。

*  *  *

(前作の続き)
3年前に「アドラー心理学」を知った青年は、
それを教えてくれた哲学者のもとを訪れていた。アドラー心理学を捨てるために。
3年前の青年はアドラー心理学に大いに感化され、
より多くの人にアドラーを伝えていきたいという大志を抱いて教鞭を振るうことにした。
ところが、学校現場にアドラー心理学は通用しなかった。
例えばアドラーが言う「褒めてもいけない、叱ってもいけない」という概念。
それを実践すると教師はたちどころに子どもたちから舐められ、学級は崩壊してしまった。
青年は失望し、アドラー心理学は所詮、哲学者の書斎の中でしか通用しない概念なのだと考えた。
とても現実で実践できるようなものではない。
それならば、自分にアドラー心理学を教えた哲学者には、
アドラー心理学を布教することを辞めさせなければならない。
そう思いつめ、煮えたぎる思いで青年は3年ぶりに再訪したのだった。

対して、哲人は言う。
アドラー心理学ほど理解が難しく、容易に誤解してしまう概念はない。
青年のように、アドラー心理学を知ったとたんに感激し「生きるのが楽になった」
などと考えている人はたいていアドラー心理学を誤解している。
誤解から理解の階段を上るためには、アドラー心理学を実践する必要がある。
そしてその実践とは、「人生における最大の選択」をすることであるという。
それはすなわち、「愛」を知ることである。
この議論は「愛とはなにか」というところに行き着くだろうと哲人は予言する。

まず学校現場において、教育の最大の目的は何か。それは自立である。
では、自立するために具体的にどうすればいいのか。それは尊敬である。
つまり、教える側が、教えられる側を尊敬することが教育の第一歩になるのだと哲人は言う。
これは教育現場にかぎらずあらゆる対人関係についても言える。
ここでいう尊敬とは、その人が唯一無二の存在であるということを知る能力であり、
その人がその人らしく成長できるよう気遣うことであるとエーリッヒ・フロムは言う。
それは、より具体的に言えば他者の関心事に感心を持つことだ。
子どもたちが耽溺している俗物、ゲームやおもちゃなどを理解しようとし、自分もそれで遊ぶ。
そうすることで子どもたちは初めて、自分が一人前の人間として扱われていると感じるのである。

では尊敬を学級に浸透させれば問題は起こらなくなるのか。決してそういうわけではない。
では問題行動に対しては叱るしかないのか。しかしアドラーは「叱ってはいけない」という。
その根拠として、まず子どもたちは自分の悪事を悪事と知らなかった可能性がある。
それを悪いと知らなかった人に対してお前は悪だと叱責するのは酷だろう。
しかし青年は反論する。幼稚園児ならともかく、
小中学生、高校生は自分がやっていることが悪いことだと十分知ったうえで悪事を働いている。
いわば確信犯として問題行動を起こしている。
そういう人もいる以上は知らなかったから叱らない、だけでは説明は不十分である。

哲人は、「悪事と知りながら悪事を働く人の心理」には5つの段階があるという。
第一段階はまず称賛を求め、それがダメなら次に注目を求めようと悪戯に走り、
それでもダメなら反抗という形で権力争いを挑み、それすらかなわなければ復讐に転じる。
つまりできるだけこちらが困ることをしようとする。
それさえも達成できなくなると人は最終的に自分の無能さを誇示しようとする。
これらはいずれも、共同体の中に特別な地位を確保したいという目的に根ざしている。

それを踏まえて、なぜ叱ってはならないのか。
それは、叱るということがコミュニケーションの目的、
つまりお互いの合意を目指すことを放棄した、未熟なコミュニケーションだからである。
コミュニケーションによる合意形成が面倒くさいと感じるから叱るという暴力に走るのである。
もっと言えば、大人は叱ることで、相手を支配できる。縦の関係を維持することができる。
それによって主従関係を作ってしまい「自立させる」という当初の教育の目的を妨げてしまう。
だからこそ叱るという行為は不要なのである。教育の目標を達成したいと願うならば。

では「ほめてはいけない」とはどういうことなのか。
ほめるということは承認欲求を満たすことであるが、アドラーは承認欲求を明確に否定する。
その根拠として、他者からの承認欲求に「依存」するかぎり、
その人は永遠に自立することがかなわない、ねじを巻かないと動かない人形になるからである。
承認欲求を求める人は「特別なわたし」であろうとし、
自分が平凡であることの勇気を受け入れられないでいる。
それは自立していないことの証左であり、他人に強く依存していることになるのである。

そして哲人は指摘する。
青年は受け持つ学級をなんとかしたいから思い悩んでいるのではない。
不幸なる自分を、教育を通じて救いたかったからだけである。
つまり、「幸せになる勇気」が足りていない。
それこそが、アドラー心理学の真骨頂であり、理解へ至る階段として立ちはだかる「愛」である。

アドラーの説く「愛」とは、世間一般的な愛ではなく「人間愛」を指している。
世間一般的な愛はたいてい、対象を神のごとく扱う「神の愛」、
性的衝動、あるいは子孫を残す本能としての「動物の愛」のいずれかに収束するが、
アドラーの「愛」はいずれも当てはまらない。
アドラーの言う「愛」とは、「ふたりで成し遂げる課題」である。
人は勉学、努力などを通じて一人で成し遂げる課題はよく実践する。
また、仕事や学校を通じて多勢で成し遂げる課題も実践する。
しかし、「ふたりで成し遂げる課題」はその技術を何も習わないまま大人になっていく。

「ふたりで成し遂げる課題」は何を成し遂げようとすることなのか。
それは、「わたしたちの幸せ」を追い求めることである。
そこには「わたし」も「あなた」も存在しない。それを越えた概念として「わたしたち」がある。
人は産まれたとき、圧倒的弱者として自己中心的に振る舞わなければ生きていけなかった。
そうやって自分の弱みを使って周囲をコントロールしていくライフスタイルを身に付けていく。
つまり、すべての人は生まれながらに自己中心的なのである。
しかし、ほんとうの愛を知ることで我々は「わたし」から脱却することができる。
それが教育が目指すところでもある「自立」なのである。
人は、愛を知らないかぎり「自立」することはない、
「誰かに(原理的には親に)愛されるための人生」を歩み続けるとアドラーは断言する。
それはつまり、承認欲求に囚われていることに他ならない。

青年は反論する。誰だって「愛」は渇望している。
しかし現実問題として愛するに値する人と出会うことが稀であるから、愛は実践できずにいる。
それがこの世の実態なのではないかと。
しかしアドラーは、「運命の人」を否定する。
人が恋愛に対しロマンティックな幻想を抱くのは、可能性を排除したいからだ。
一年間誰でも出会わない人はほとんどいない。
出会いがあるにもかかわらずそれを排除するのは、可能性の中に生きていたいからに過ぎない。
つまり人は「運命の人」を想うことで、幸せは向こうから来るものだと信じ、
それを自分から行動しないことの言い訳に使っているのである。

運命とは自然発生的に向こうからやってくるものではない。
自ら作り上げることができるものである。
幸せになる勇気さえあれば、人は誰でも愛することができるのである。
そして人は愛し合うことによって「共同体感覚」に辿り付く。
ただ存在するだけで貢献できているという実感。そこにこそ「幸せ」が内在する。
ダンスホールの壁際で傍観するのはやめて、「いま」を誠実に踊ろう。
近くにいる人の手を取り、自分なりに精一杯のダンスを踊ろう。幸せはそこから始まるのである。

*  *  *

以上要約でした。以下、個人的な感想です。
まぁ端的に言うならば、前作よりもさらに理解が難しいと言わざるを得ません。
独身者全否定ですからね。でも、だからこそ刺さる内容でもあります。
アドラー心理学が否定する「承認欲求」。
それは、ヒトが弱いいきもので他者のチカラを借りなければ生きながらえないからこそ、
原理的にすべての人が生まれ持っているものだと指摘します。
親に愛されて育つことで、愛されるための性格を身に付けるのです。
そしてあらゆる人は自分を中心に世界が回るという黄金時代(子ども時代)を経るわけですが、
大人になれば人はいつかそこから脱却しなければなりません。
承認欲求に基づいて生きることは自分の人生を生きないことであり、
そこには自由はありません。
では、承認欲求から解き放たれて幸福なる人生を希求するにはどうすればいいのか。
アドラーは「人を愛すること」だと言います。

なんてこった。
つまり逆を言えば自分は独身であるかぎり、承認欲求からは逃れられないのか!?
本書は、それに対する答えは書いてありませんでした。
幸福論についての本を読んでいたと思っていたら、
いつの間にか実践的恋愛観の話にすり替わっていたのです。これにはびっくりしました。
それだと「人は今日からでも幸せになれる」という前作の結論と矛盾するのではないか?
と思うのですが、本書ではそれを否定します。
アドラーの言う愛は「いかにして誰かに愛されるか」は一切関係ありません。
自分を愛してくれるかどうかは他者の課題であり、自分はどうすることもできない。
であれば、まずは自分が何の担保もなく他者を愛そう。それがアドラーの言う「愛」です。
自分が他者を愛するのは今日からでもできる、ということなのでしょう。

他者を、何の担保もなく愛することができるか。
これはとても勇気の要ることであり、それこそがまさしく「幸せになる勇気」であると言います。

アドラーの言う「愛」はとても厳しい覚悟を求めるものです。
初恋のロマンティックな甘い思い出は通用しそうにありません。
本書を通じて、愛を甘く見ていたと思った独身者は少なくないと思います。
いや、独身者だけではないでしょうね。恋愛中の人、婚約中の人、既婚の人ですら、
自分は甘かったと思った人は少なくないのではないでしょうか。
ある意味既婚だともう取り返しが付かないので、
これを独身のうちに知れたのはある意味アドバンテージになるのかも。
……あと10年くらい早く知りたかったことではありますけどね……。
前作も強く感じたけど、出版直後に読んでおけばよかったと強く思いました。
これを学生のうちに読める人は幸運であると言えるでしょう。

さて、今年上半期は定番の自己啓発本を中心に読書を進めてきました。
自己啓発本と聞くと脊髄反射的に「うさんくさい」と言う人もいますが、
本当にうさんくさいのは「運が良くなる本」「辛くなったら読む本」といった類の三流本で、
自分が読んだ『七つの習慣』『嫌われる勇気』といったミリオンセラーの啓発書は、
むしろある意味での「哲学入門書」としてとても為になったと感じます。

上半期は結局4冊しか読めなかったので、
年間計画通りに進めるならば下半期は6ヶ月で8冊読まなければなりません。
これまで、『七つの習慣』は1.5周、『嫌われる勇気』は3周、『幸せになる勇気』は2周と、
ちょっと熟読しすぎた感があるので、5冊目からはサクサク進めていきたいところ。

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