#6094

不安について


空想

ここ最近のストレスの原因はなんだろうと考えていて、
最初は連日テレワークによる閉塞感や、生活リズムや、あるいは仕事のせいだと思っていました。
しかし、どうもそうではないような気がしてきました。
なぜなら、テレワークが負担でもなんだかんだで休日は毎週でかけているし、
平日だって買い物や食事のために外に出ている。完全な引きこもりというわけではありません。
仕事も、確かに昨日はミスして何とも言えない気持ちになっていたけれど、それは一時的な話で、
今日は無事にリカバリーして後ろめたく感じる必要もなくなりました。
昨日のような事例はあくまでイレギュラーであり、常日頃仕事が負担となっているわけではありません。
前職で高い負荷をかけられた経験もあり、「仕事は仕事」と割り切る能力は育っているように思います。
生活リズムについても、今日ちょっと崩れそうな予感はしていますが、
ここ最近はとても安定していて睡眠に困ったことはありません。

仕事でも睡眠でもないなら何なのかと考えたとき、ふと思い当たる感情がありました。
それは、いわば漠然とした不安。「自分は何者にもなれないのではないか」という不安です。

自分は昔から浅く広く、いろいろなことに興味を持っては冷めていくを繰り返してきました。
とにかく興味が目まぐるしく変わっていきます。
新しく知った何か、誰かに教えてもらった何かに心を奪われてしまう。
その結果、とにかく物事が長続きしない。
毎年やりたいことが一貫していないので、どれだけ歳を重ねても成長できないわけです。
ここでいう成長とは、何らかの専門家としての成長です。
つまり、スペシャリストになれない。その結果、称賛を得られない。そこにもどかしさがある。
これがストレスとなって積み重なっているのではないか。

「自分は何者にもなれないのではないか」という不安は、
言い換えると「自分は特別な存在でありたい」という欲求であると言うことができます。
しかし、例えばアドラー心理学では特別な存在でありたいという欲求を認めません。
それはいわば自立していない、子どもじみた感情であるというのです。
まず「普通である」ということを受け入れることが自立への第一歩なのだと。
今のところ自分は、この理屈はさっぱり理解できていませんが、
何にせよ特別でありたいと思う欲求がストレス源である可能性は高いように思われます。

そしてこれはおそらくですが、その不満の原因のひとつとして情報収集がある気がします。
例えば、自分は2015年当時はプログラミング言語といえばPHPしか扱うことができませんでした。
だから、やるとしたらPHPしかないので、PHPのスキルも磨くことができました。
ところがいまは、中途半端に他の言語をいろいろ知ってしまったがために興味が湧き、
いろいろな言語の勉強をしようとして、すべてが中途半端に陥っています。
実践的なコーディングは第15回期間限定ランキング準備以来さっぱりできていません。
あれもやりたい、これもやりたいと思っても、
一日は昔と同じく24時間しかないのですから、どれもこれも少ししか着手できないのが当たり前です。
そうなれば成長も何もあったものではありません。
情報過多によるキャパシティオーバー。まずこれが原因として考えられます。

何かに取り組んでいる途中に別の興味に惹かれてしまうがために、徹底できない。
徹底できないから、結局何一つとして生み出すことができない。
これではクリエイターとして失格だし、何より欲求不満が溜まって当たり前です。
物事に興味を抱くのは、「自分は特別な存在でありたい」という欲求をかなえたいがため。
それそのものに達成目的があるわけではなく、
それに興味を持っていることによって脚光を浴びるかもしれない自分にうぬぼれているわけです。
そして、実際には少し囓っただけで他者承認は得られないので欲求不満は溜まる一方と。
得られたとしても、「最近これこれこういう勉強をしているんですよ」「へーすごいですね」で終わり。

じゃあ、より強い称賛を得るためにはもっと頑張ればいいのか。
それの行き着く先は、他者評価によって振り回される「不自由な人生」です。
アドラー心理学が「特別な自分」を戒める理由はこの辺にあるような気がします。
特別な自分というのは、要するに他者に認められたいという欲求でしかない。
他者承認において、どういう基準で自分を認めるかどうかを決めるのは常に他者。
周囲の人たちが意地悪して永遠に認めなかったら、永遠に認められない人生を歩むわけです。
頑張っても評価してくれるかどうか分からないなら、行動の動機づけにもなりません。
果たしてそこに自由はあるのか。
これは特に、インターネットで他者承認を満たそうとしている場合に注意が必要です。
ネットの向こう側にいる相手は、数年来の付き合いでもやっぱり見知らぬ他人でしかありません。
ネット越しの他人は自分を深く理解していないことが多いので、評価軸もブレがちです。
だから「ネットの誰かに認められたくて頑張る」という動機づけは危険な気がする。

上記の願望や、それを変換した不安には次のような枕詞が隠されています。

  • 「(誰かにとって)自分は何者にもなれないのではないか」
  • 「(誰かにとって)自分は特別な存在でありたい」

ここでいう(誰か)というのはいわば変数Xです。
変数に具体的な人物名を入れられる人は、それが頑張る理由になるのかもしれません。
例えば家族だったり、恋人だったり、友達だったり、あるいは特定少数のコミュニティだったり……。
変数Xのままでは頑張りようがないので、何かしら代入してあげる必要があります。
もちろん最初はそれが他人でもいいのかもしれませんが、
たとえ恋人でも、自分のやったことを正当に評価してくれるとは限りません。

では、他人が評価軸として必ずしも信頼に値する存在とは限らないとき、いったいどうすればよいのか。
他人でダメなら、それはもう「自分」しかいません。
変数Xに「自分」を代入できたとき、人はようやく自立するのだと思います。
他人に褒められなくても、自分で自分を支えることができるようになる。

つまり、何が言いたいのかというと、
「自分はこれをしているけれど、これは自分が決めたことだから間違いない!」
と言い切ることさえできれば、冒頭に書いた漠然とした不安は消えるのではないかと。
もちろん「自分」にもいろいろあって、そこには「理想の自分」と「現実の自分」がいます。
理想の自分があれこれ突っついてくるかもしれませんが、
そのほとんどは「他人に認められたい」という短絡的な欲求であって、それに惑わされてはいけません。
次々に湧いて出てくる興味関心が、本当に自分のやりたいことなのか、
それとも他人に認められたら終わりの一過性の興味なのかを見極めるためには、
例えばそれを仮に成し遂げたとして、具体的な他人に自慢することを詳細に想像してみて、
それで満たされるかどうかです。
想像上の承認でもう満足できそうなら一過性の興味だし、
ぜひとも実現しなければと思えばそれは本当に自分に必要なことなのでしょう。
やりたいことを必要かどうかで振り分けてしまうと、なんでも必要という結論に行き着きがちですが、
それでは結局キャパシティーオーバーになって何もできません。
本当に有意義な分類をしたいのなら、それは自分に忠実でなければなりません。

自分に忠実な「やりたいこと」を厳選して並べてみる。
そうすることによって、ようやく自分は何かを「徹底」できるのかもしれず、
そこまでやってやっと、自分は「何者にもなれない」という不安から逃れられるのかもしれません。

他者承認に依存しなくても自己研鑽を続けていくというのは簡単ではありません。
自分が唯一それを実践できているのがこのブログですが、
日課として完全に定着するまでに2004年から2018年まで、実に14年かかっています。
もしかすると、若いうちは興味が分散するのも仕方ないのかもしれません。
精神的自立は、仕事や趣味と十数年と付き合っていくうちにようやくできるようなものなのかも。
ブログのように、最初は他者承認を満たすことがメインの物事でも、
それが人生の一部になるということもありえると思うので、
アドラーが否定しているからといって、自分は決して他者承認を全否定はしません。
ただ、他者承認ありきで行動するにしても、
それが一過性のものとして終わってしまうと人生の糧にならず、
時間の浪費で終わってしまうという問題があります。
もちろん、常に何もかも生産的であるべきなどと考えてしまうのも考えものですが、
短絡的な欲求に囚われていては、いつまで経っても不安から逃れることができません。

今日は約80年の人生のうちの一部を生きているんだという自覚ができるような仕事をしたいものです。
ここでいう仕事というのは、金銭のためにする仕事ではありません。
自分を成長させるための「何か」です。
それは人生にとって有意義ならなんでもいいと思います。
そういう「軸」があって初めて、不安は払拭できるのだと思います。
こう考えれば、漠然とした不安というのは、ただ単に未来への不安なのかもしれません。
十年後の自分も大して変わっていなかったらどうしよう……というような。
でも、そういう不安をぶっ壊す何かって結構身近に転がっていると思うんですよね。
「これは十年続けてもしょうがないな……」とか「これを十年続けられたらすごいかも」とか。
その後者を根気よく追い求めることができればしめたものです。
そういう視点で物事を捉えていくのも悪くないかも。

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