#6161

意見の話


独り言

ブログで特定文化を批判し、その批判対象当事者に読まれたことで叩かれた今回の件は、
一言で言えば「読まれるとは思っていなかった」というところに反省点がある。
しかし、そもそもの問題として、特定文化を批判することは止められるのかをまず考えたい。
そのことについて深く内省してみると、
僕は確かに、突如として個人や文化や団体といったものを批判したくなるときがある。
それは著しくストレスが溜まっているときが多い気がするが、そうともかぎらない(今回のように)。
往々にしてその欲求の根元には、批判対象に対して「何々をしてほしい(してほしくない)」と思う、
個人的な願望が存在していることが多い。それが「批判」という形になって表れる。

なお、ここでいう「批判」とは、厳密にはクリティカル・シンキングのそれではない。
批判的というと本来は客観的に公平に、論理的に対象を評価する行為のことを指す。
しかし僕がブログで行っている批判はあくまでも個人的に主観的に、
自分が観測したかぎりの根拠に基づいて批判をしようとしているだけであって、
それは世間一般的には「非難」の方が近いかもしれない。
これは、今回の騒動に至る重要なポイントでもあると思うのでいちおう補足しておく。
真っ当な「批判」だったらたぶん相手も怒っていない。「非難」だから怒っているのだと思う。
(なお、この記事自体も主観的な意見にすぎないことに注意されたい。)

では、「非難」はネット上に一切書いてはならないのか。
理想を考えればYESと答えたいところだが、これはとても難しい問題だと思う。
まず、ネットにかぎらず世の中には絶対の真実と言えるような情報は存在しない。
「客観的に絶対正しい情報しか発信してはいけない」というルールができてしまったら、
個人がネットで活動できなくなることはおろか、マスコミの存在意義すら怪しい。
情報発信者は、たとえマスコミであっても主観的な価値観に基づいて発信しているものであり、
その点で言えば、「非難」は、客観的には「意見」に過ぎないと言うこともできる。
物事の意見を書いてはいけないというのは、いささか横暴のような気がする。

おそらく今回の件は、意見の相違があったからこういうトラブルになったのではない。
非難から具体的意見を除いたときに残るものは何か。感情である。
発信する側は「あなたに何々をしてほしい」というメッセージ性を情報に込める。
しかし、現実世界で考えてみると、「あなたに何々をしてほしい」と言って話が通じるのは、
発信する側と受け取る側の間によっぽどの信頼関係があるか、
発信する側が著しく地位の高い場合にかぎるような気がする。
それも、発信する側の立場からしてみれば当然のものと思っていても、
受け取る側にとってはそれが困難である場合もある。
親が子に、「家事を手伝いなさい」「勉強しなさい」「スマホはほどほどにしなさい」と言うとき、
親がどんなに子の為を想って言っていても、子にとっては嫌な気持ちになるものだ。

親子関係ですら言われると嫌なことを、顔も知らぬ相手に言われて嫌にならないはずがない。
だから、「あなたに何々をしてほしい」という主張は、
発信する当人にとってどれだけ筋が通っていても感情的には拒絶されることがある。
「お前に言われたくねえよ」と思うものである。もちろん、この推察が的外れである可能性もあるが。

「誰かに何々をしてほしい」という願望をネットに発信するのが良くない、
というのは、アドラーの言う「課題の分離」にも当てはまるところがある。
つまり、この願望は言うなれば他人の課題であって、本来自分の関与できるようなことではない。
自分を変えることはできるが、他人を変えることはできないという大原則を考えれば、
これは他者に対する「侵害」であると考えることができる。
この点においては、近年のブログ運営には反省すべきところが多々ある。

では、他人に対する自分の「意見」はネット上に一切書いてはならないのか。
これは部分的にはYesであると言えると思う。つまり、
「信頼できない相手に関する否定的意見を、相手が見うる場所に書くのは危険である」
というのが、本件に関するひとつの教訓と言えるのではないだろうか。
誰かに関しての否定的意見を書くときは、まずその人が信頼できるかどうかを計る。
信頼できない場合は、おそらくその意見は相手にとって心外な情報と受け取られるだろう。
相手にとって心外な情報をネットという公共の場に晒し続けることは当然好ましくない。
この「相手」というのは当然、個人だけでなく団体や特定文化も当てはまる。
例えばある文化の公式情報が気に入らないと思って否定的意見を書く場合でも、
相手が見る可能性をゼロにできないのならば公開しない方が良い。

「万が一反論してきても、この人が相手なら痛くないだろう」
「相手はそもそも立場上反論できないだろう」
「匿名なら何を言ってもいいだろう」
と決めつけて、政府や企業、有名人などに罵詈雑言、誹謗中傷を並べ立てている人がいるが、
この考えに基づけば、それは明確にモラル違反であると言って良い。
この辺りは昨今世間にも注目されている話題であり、今後の法改正に期待したい部分ではある。

もちろん、これはあくまでも「主観的否定的意見=論拠のない非難」にかぎる話である。
例えば「大阪は特別区に移行すべきではない」
「『鬼滅の刃』は面白くない」というような意見を反論覚悟でどうしても言いたい場合、
何か客観的な根拠があって否定的意見を言うのは構わないと思う。
否定的意見をネットに公開したければ、それ相応の調査・勉強をすべきであって、
それを怠って感情論だけで書くと、反対派からの感情論の反撃を受けかねないということだ。

さて、納得できそうな教訓に帰結したのは良いが、果たして僕はこれを実践できるのだろうか。
今後も末永くブログを続けていくにあたって、何十年と遵守し続けることはできるのだろうか。
率直に言えば、それは難しいと思う。いますぐの実践は限りなく「無理」に近いと思っている。
それは16年間やってきたスタイルをいきなり変えるのは難しいという習慣に依るものもあるが、
もっと根源的なものとして、僕の心には、誰かを傷付けたいと願う本能が存在すると思うからだ。

それは、社会を見渡せば誰の心にも内在する人間の本質的な「弱さ」だと思う。
人は強者を称賛する一方で、心のどこかで弱者を見下すことを快いと感じるところがある。
だから人はゴシップ記事に群がり、他人の些細な失敗に容赦の無い鉄槌を下すことができる。
僕は、それは人が弱いからだと思う。

弱者は、否定しなければ否定される恐れがある。それが怖いから誰かを否定し続ける。
自分の意見を肯定してほしいからこそ否定するのだと思う。
僕もまだ人として弱い。だから、誰かを否定しないと自分という「個」を確立できないことがある。
対立した意見を先に排除しなければ、自分が否定されるかもしれないという恐れを払拭できない。
根底的なところでは、まだ自分で自分を肯定できずにいるのだろう。
この人生はこれをやっていればよい、これを守り抜けばよい、
それ以外は否定されても構わないと思えるような信念たりうるものが存在しない。
それは心の「軸」となりうるものであって、それが無いからこそ、
自分の思い通りにいかない人や文化や団体に対して、過敏に反応せざるを得ないのではないか。
人としての弱さがなかったら、わざわざ他人に要望を出しに行く必要性もなくなるのだと思う。

信頼できない相手の否定的意見は言うべきではない。
これは、道義的に考えれば筋が通っているし、再発防止策のひとつとして納得できる。
しかし、一方で弱者たる自分がそれを完璧に実践できるのかというと怪しいところがあり、
そういう意味ではこの教訓も理想論に過ぎないのかもしれない。
他者に対する否定を一切せずに「自分」を保つことができるのかという問題がある。
それができないから、半ば無意識的にトラブルの種になる記事を書いてしまったのではないか。
「愚痴だけど、これだけは書かせてくれ」という衝動を、
ひとつの教訓を得たからといってすぐに抑えられるかというと、十分な自信はない。

さらに、弱者は自分だけではない。むしろネットには弱者がはびこっているからこそ、
今日もあちらこちらでトラブルが発生しているのだろう。その多くは弱者同士の争いである。
意見とは受け手次第でいかようにも解釈できるから(肯定的意見を曲解される可能性すらある)、
その意味では、この世の「弱者」が全員「強者」にならないと同等のトラブルはなくならないと思う。
「他人は変えられない」のだから、やはりこれは理想論と言うほかない。

そこで、そもそも人に嫌われるのは当たり前であると割り切るというアプローチもある。
自分を叩くかどうかを決めるのは他者の問題であって、
自分はそれをコントロールすることはできない。
先述の通り、意見はどのようにも解釈できるのだから、
究極的にはそれが肯定的でも否定的でも関係なしに叩かれる可能性はあるということである。
そして、意見を否定されたとき、それをどう受け取るかもまた個人の解釈に委ねられる。
果たして、「あの人に否定されたということは自分の意見は絶対に間違っている」
と深刻に考えるほど、自分を否定してくる相手の意見は信頼に値するものなのだろうか。

この点については、僕は経験不足の面が否めずに今回の件を真に受けてしまった節はある。
たった一人からの誹謗中傷を深刻に捉えて一時非公開の措置を執ったことは、
アクションとしてはいささか大袈裟だったかもしれない。ここにも心の弱さが見て取れる。

では、人としての「弱さ」を克服しなければブログは再公開できないのかというと、
僕はそうは思わない。
アドラーは言う。「自由とは、他人に嫌われることである」
他人に好かれることを絶対的な価値として行動する人生は不自由で行き詰まった人生に過ぎない。
すべての人に嫌われずに生きていこうとするのはきわめて不自由である。
つまり、対人関係においては人に嫌われることが自由のコストとみなすことができる。

僕は、いくばくかのコストを支払ってブログを運営してきたということなのだろう。
例えば読者が100人いたら、20人、いやそれ以上の人には静かに嫌われてきたのかもしれない。
そして、そのコストを支払う代わり、きわめて自由に言論をブログに掲載し続けてきた。
自由の対価として今回のように手痛い反撃を被ることもあるが、
自由に書き殴ることができる場を得ることによって、
僕はブログを通じて実に様々なことを学び、成長し、誰かと喜びを共有してきたわけであり、
その積み重ねはたった一度の誹謗中傷で意外なくらい揺らいでしまったが、
しかしだからといって自由を放棄しようとは思わなかった。

その意味では、今回の件を受けてもブログの運営方針は一切変えるつもりはない。
ただ、現実的にモラルの面で改善可能な点がないわけではないので、
あえて他人の腫れ物に触るような愚行はもうやめようという話である。
いくら自由に書く権利があるとは言っても、不毛な言い争いは避けるに越したことはない。

ひとつの失敗は、実に多くの反省を生み出す。
むしろ失敗したときこそが、多角的な視点を手に入れ、次のステップに進むチャンスでもある。
ただし、反省を忘れてしまっては意味がない。
今回の件は2018年の反省を常に忘れていなかったら起きなかったトラブルだとは思う。
2020年に入って実生活もネットも比較的好調だったがゆえに、油断していた節はある。
反省を体系化して、復習して、しっかりと把握するくらいの手間は支払うべきなのだろう。

それに気づかされた今回の件は、むしろ相手には感謝を送るべきなのかもしれない。
ブログ運営に伴うモラルが不足していたこと、その根底には人としての「弱さ」があること。
当記事の考察で得た気付きは、誹謗中傷を受けていなかったら得られなかっただろうし、
この気付きがなかったら、僕は今後もっと大きなトラブルに巻き込まれていたかもしれない。
今後必要になってくるスキルとしては必須の経験だったと思う。
この程度の誹謗中傷でこれだけ多くの反省点や方針を生み出せるのなら、
むしろ嫌われて良かったとさえ言える。
一人で悩んでここに行き着くためには、もっと膨大な時間がかかっていただろうから。

僕は、僕を支持してくれる人のためにこそ頑張る。その人生の方針に変更はない。
しかし一方で、自分を嫌う人との関係からは、
むしろより多くの反省を得られることもあるということを今回の一連の反省で知った。

本当の意味で無価値な人間関係など存在しないのだろう。そう思いたい。

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