今となっては遙か昔のように感じるが、
今年のゴールデンウィーク連休中、対戦ゲームで連戦連敗を喫した僕は、
自分という存在が他人に認めてもらえないだけで崩れ去るその精神のもろさに絶望したものだった。
人は何故生きるのかと言われたとき、
それを「他者に認めてもらうためだ」と答えてしまうと人生に行き詰まる。
他者に認めてもらうためには相応の努力が必要だが、誰かに認められなければ努力はできない。
それだけでも矛盾しているのに、かりにそのループから抜け出して「無償の努力」ができたとしても、
他者承認は100点を得られれば次は101点、102点……と際限なく肥大化していく。
他者承認のために生きることほど、不毛なことはない。
そして人はいつしか、Twitterの投票機能で次にする行動を決めるようになったり、
ふぁぼられなかったつぶやきは全削除したり、好きでもない流行りのゲームを実況してみたり、
うさんくさいハッシュタグに参加したりするようになるのである。
別に、これらの行動を悪だと言いたいわけではない。
ただ、他者承認に囚われている人は世の中に思っているよりも多くいるらしいということだ。
はたして、他者承認を克服することはできるのか。その巨大な欲求を否定することはできるのか。
ある日思いついたのは、他者承認というのは自己承認の代替なのではないか、ということである。
なぜ他者承認を欲するのか。
それは、自分一人では自分のしたことを評価・判断できないからだ。
自分でしたことが本当に正しいのか自信がないから、他人に判断を委ねたがる。
他人に「いいね」と言ってもらえて初めて、自分の行動は正しかったんだと思うことができる。
つまり、他者承認を求めることの根底には、強い「自己否定感」があるのではないか。
自分のやることはどうせ大したことがない。間違っている。矮小なものだ。
そういう思いを拭い去れない。
他人の「いいね」はそれに対する解呪の呪文のようなものなのである。
それを踏まえて考えてみると、
「他人が『いいね』と言ってくれたから価値がある、そうでないものは価値が無い」
という考え方はひどく他力本願的なものであると言えそうである。
他人が評定を下す前に、まず自分はどう思っているのかを考える余地がある。
そこで自分は間違いないと思っているのなら、自分が端から否定する必要はどこにもない。
他人の評価がどうであったかは参考にはなるけれども、
それだけが絶対的な評価であるということはない。
ゴールデンウィーク時点の自分は、そういった意味での浅はかさがあったように思う。
自己承認を放棄した結果、他者承認に強く依存するようになったと仮定したとき、
それでは自己承認を少しでも取り戻すにはどうすればいいのだろうか。
これは難しい問題で、僕はまだ明確な答えは持っていないけれども、
おそらくは、自己不信、自己否定の根底には、他人に否定された経験以上に、
自分の「本心」をないがしろにしてきた歴史の積み重ねが要因として大きいと思う。
「自分のやることはどうせ大したことがない」「間違っている」「矮小なものだ」
と思う視点は、他者承認のために自分の本意でないことをする自分を、
客観的に見ている本意の自分であると思う。
その気持ちを言い換えれば、自分は本当はこんなことはやりたくない、
けれども他人から「いいね」をもらうためにはこれがベストなのだと言い聞かせているのである。
自己否定感とは、本心から沸き上がる自分自身へのアラートなのではないだろうか。
それ以上それを続けると自分を見失うぞと警告しているのである。
もしそうだとしたら、自己承認を復権するには手っ取り早い。
他者の意見よりも「自分の本心」を優先するだけでよい。
本心を支持してやれるのは他でもなく、自分だけである。
その自分がないがしろにすれば、本心は痩せ細っていくに決まっている。
誰に言われずとも頑張れる人というのは、
きっと思春期から長きにわたってこの「本心」を大切に育ててきたのだろう。
それは、人によっては矜持だったり自負だったり尊厳だったりと姿形は変わるだろうが、
いずれにしてもその人にとっての心の「芯」なのだろう。
僕もそれがほしい。そうすれば、生き方が変わる気がする。
堕落した学生時代に放置されてきた僕の本心は、今は見る影もない。
それは、ひどくわがままに育ってしまったように思う。
あれもしたい、でもこれもしたいと思う。当然現実の自分はその期待に応えきれない。
本心もそれは分かっているから、具現化することを大して期待しない。
そんな本心とも言い難い欲求が、確かに僕の中には存在している。
十数年を経てひねくれてしまったそれを、矯正することは可能なのだろうか。
それを矯正すれば、自分も心の芯となるものを持つことができるのだろうか。
もう年齢的に手遅れかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
他人に認められるほどの能力をたまたま持ち合わせなかっただけでこうなったのだとしたら、
これほど惨めなことはない。
不確かなことは多いけれども、
いずれにしてもすべてを他者承認に委ねる生き方では行き詰まってしまうということだけは確かだ。
そこから舵を切る覚悟が必要であるということだけは、どうやら確からしい。