#6218

批判的思考の考え方


備忘録


伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(ちくま新書、2005年)を読みました。
2020年の課題図書です。

議論を鵜呑みにせず、しっかりと吟味してよりよい答えを導く思考法、
クリティカルシンキング(批判的思考)」。
本書は、クリティカルシンキングのハウツー本としての性格を持ちながら、
それに対する著者なりの答えである哲学の一派「懐疑主義」を紹介する、一粒で二度おいしい本です。

最初に総評を書くと、この本はいわゆる「思考法」の本としては非常に出来がよく、
ものごとの考え方そのものをアップデートしたい人にはぜひ読んでもらいたい良本です。
高校や大学の教科書として採用されてもいいんじゃないか、
と思うくらい、哲学の基礎的なノウハウが遠慮容赦無く詰め込まれています。
まさしく「知の道具箱」と言えるでしょう。
そんな本書の一端を紹介してみます。

*  *  *

◆第1章「上手に疑うための第一歩」
哲学というと実生活に役に立たない学問であるという印象が強いが、
その実、思考スキルを磨くツールという点ではとても有用であり、実生活にも応用することができる。
その一端として、本書では「クリティカルシンキング」を紹介する。
クリティカルシンキングとは日本語に直すと「批判的思考」であるが、
ここでいう批判とは否定的な意味合いではなく、
「ある意見を鵜呑みにせずよく吟味すること」を言う。
本書では、できるかぎり筋の通った思考法によって、情報を吟味するスキルを紹介する。
これを哲学的クリティカルシンキング(以下、クリティカルシンキング)と呼ぶことにする。

クリティカルシンキングに対する著者の答えは「ほどよい懐疑主義」である。
本書では、この「ほどよい懐疑主義」とは何かについても解き明かしていく。

クリティカルシンキングの実践のためには、まず疑う習慣を持つことが重要だ。
例えば「マイナスイオンは身体に良い」などとマスメディアや大企業が言っているのを聞くと、
大手の言うことだからと鵜呑みにしてしまうことが多い。
また、自分に都合の悪い意見は何も考えずに却下してしまうのも人の性である。
クリティカルシンキングを実践するためには、鵜呑みにせずよく吟味する必要がある。

クリティカルシンキングは「議論」を対象にする。
議論と言うと一般的には「話し合うこと」を指すことが多いが、
哲学的な意味における議論とは、「主な主張(結論)」とそれを支える「理由となる主張(前提)」、
そして「前提と結論のつながり(推論)」の3要素を足し合わせたものを指す。
クリティカルシンキングの作業としては、
①議論の構造を明確にし、②前提を検討し、③推論を検討する
という手続きが基本形になる。このとき、前提と推論が共に妥当であると認められたならば、
結論も妥当であると認めてよい。

たとえば「名古屋は日本一の街だ」という主張に対して、
「なぜなら名古屋には日本一の球団があるから」という前提(理由)が挙げられたとき、
本当に名古屋に日本一の球団があるかどうかをチェックするのが②の作業であり、
日本一の球団があるという前提から、
その街が日本一であることを導き出すことができるかをチェックするのが③の作業である。
「名古屋にある球団のどこが日本一だ」と言えば②について反論していることになり、
「日本一の球団があったところで街が日本一とはかぎらないだろう」と言えば
それは③に反論したことになるわけである。

しかし、日常的な批判的思考の対象は常にすべて明文化されているとはかぎらない。
相手の主張には暗黙の了解が含まれている場合があるし、
言葉の定義というものはあいまいなことが多く、いかようにも解釈することができる。
そこで、クリティカルシンキングの作法として、「思いやりの原則」というものがある。
これは、相手の議論を組み立て直す場合にはできるだけ筋の通った形に組み立て直すべきだ、
という原則であり、これと反対に相手の議論をわざと意地悪に解釈してやっつけるのは
藁人形論法」と呼ばれ、クリティカルシンキングの世界ではきびしく戒められる行為である。

◆第2章「『科学』だってこわくない」
あらゆる情報の前提のなかでも、「科学的事実」は特殊な地位を占めているように思われる。
科学的に証明されていると言われると、もはやそれだけで疑う余地はないように感じられるからだ。
しかし、クリティカルシンキングでは
「科学的」だからといってそれを鵜呑みにしてはならない。そこにも疑う余地はある。

特に注意すべきなのは「権威からの議論」である。
これは、「誰々さんという偉い科学者が言ったから間違いない」という主張であるが、
このとき、その科学者がどんなに高名であっても、
Aの専門家なのにBについて言っているとすればそれは信用には値しない。
権威からの議論の反対に「対人論法」がある。
これは、「誰々さんの言うことなんて間違っているに決まっている」というものであり、
これもクリティカルシンキングをする上では誤った考えである。
クリティカルシンキングでは、
基本的に主張している人だけを見てその主張の善し悪しを判断してはならない。

ある仮説が科学的に正しくあるためには、その仮説は「反証可能」であることを要請される。
反証可能とは、あるデータと付き合わせればその仮説が放棄されることがあり得るという意味であり、
反証が不可能であれば、その仮説は科学的ではないということになる。
たとえばある女性が「夫は浮気をしているかもしれない」という仮説を立てた場合、
女性にとって有利な証拠だけではダメで、反証可能である必要がある。
例えば夫を一定期間尾行するというのは有用である。
そこで何か浮気の証拠が出てくれば仮説は立証され、逆に何も出てこなければ仮説は反証される。
しかし、ここで仮に反証されたとしても、女性が
「夫は尾行に気づいてどうにかバレないようにうまく立ち回ったのだろう」
などと考え出すと反証は不可能ということになる。そういう考えに至った時点で、
最初の仮説は疑似科学的であると言わざるを得ない。

また、あるグループが信用できるからといって、それに所属する個々人が信用できるとはかぎらない。
グループ全体がある性質を持つからといって
個々のメンバーも同じ性質を持っていると錯覚することは「分配の過ち」と呼ばれる。
逆に、個々のメンバーが持つある性質を
グループ全体も同じように持っていると錯覚することは「結合の過ち」と呼ばれる。

ところで、哲学では言葉の定義は「必用十分条件」を満たしていることを求める。
「ラクダとは、砂漠に住むコブのある生きものである」というのは辞書的定義だが、
これは必用十分条件を満たしていない。
砂漠に住むコブのある生きものに、ラクダではない生きものがいるかもしれないからだ。
「AはBである」というとき、AとBが過不足なく一致しなければ必用十分条件は満たさない。
例えば「正三角形は3つの辺の長さが等しい三角形である」というのは必用十分条件を満たしている。
議論の上で新しい言葉を使う場合、なるべく哲学的定義を満たしてやることが望ましい。

◆第3章「疑いの泥沼からどう抜け出すか」
「AはBである、なぜならある事例においてAはBであったから」
という形を取るものは「事例による議論」と呼ばれる。
事例による議論は「AをすればBになる傾向がある」という主張をしたい場合あまり信用できない。
しかし、「AをすればBになることもある」という弱い主張をするうえでは強力である。
「AをすればBになる傾向がある」ということを主張したい場合には、
統計的検定を使って明らかにする必要があり、事例による議論は有効ではない。

17世紀フランスの自然科学者であるデカルトは、
知識は絶対確実に正しいと言える基礎の上に成り立つべきだと考えた。
そこで、絶対確実なものだけを受け入れるという立場、「方法的懐疑」を提案した。
しかし、デカルトはその考え方に基づいて真実を探すと、
真実というものはごく少ないものだということに気が付いた。
伝聞で得た知識には間違いがつきもので、とても正しいとは言い切れるものではない。
では、たとえば目の前にコップがあるという事実はどうか。
一見すると、その事実は絶対に正しいように思える。
しかし、もしかするとこのコップは我々の視覚を操るデーモンが見せる幻覚かもしれない。
あるいは、いまこうして知覚している世界は、
精巧なコンピューターが見せるバーチャルリアリティの世界かもしれない
デーモン仮説水槽脳仮説)。

しかし、この仮説を受け入れてしまうとあらゆる仮説も推論も成り立たない。
その結果、あらゆる議論は崩壊することになる。
そこでデカルトは考えた。あらゆる感覚与件がデーモンに騙されて得たものだったとしても、
「騙されている私」の存在は否定のしようがない。
従って、私の存在だけは確かである(「我思う、故に我あり」)。
デカルトはそこからさらに世界の存在を証明してみせるが、それは世間には受け入れられなかった。

デカルトの方法的懐疑はクリティカルシンキングのアプローチとしては失敗したが、教訓はある。
できるだけ確実なところから出発して、
一歩ずつあやふやなものを選り分けていくというアプローチは、決して不毛な作業ではない。
そこで、方法的懐疑から一歩退いて我々の論理的能力はデーモンの手も及ばないと仮定する。
そうすれば、少なくとも論理的に妥当であると判断された推論は認めてもよいことになる。
ここでの「論理的」とは一般的には筋が通っているといったゆるい意味で使われるが、
より厳密には、前提がすべて正しければ結論も必ず正しいという意味で、
その意味での妥当性を「演繹的に妥当」であると言う。

あらゆる前提は伝聞など体験したことに基づいて立てられるので、経験的であると言える。
しかしデーモン仮説では経験的な情報はすべて切り捨てられることになり、
これではクリティカルシンキングが成り立たない。
かといって、デーモン仮説を全面否定して不確かな情報も受け入れようとすると、
それもそれでクリティカルシンキングは成り立たない。
「味方でないやつはすべて敵だ」というような両極端な考え方を、哲学では「誤った二分法」と呼ぶ。
誤った二分法を避け、クリティカルシンキングを成り立たせるためのアプローチとして、
文脈主義という考え方がある。
文脈主義とは、同じ人の同じ意見も判定を下す側の文脈によって、
妥当とも妥当でないともどちらも判定しうることを認める考え方である。

文脈主義の考え方のひとつに「関連する対抗仮説型」がある。
これは、主張に対する対抗仮説をまじめなものとふまじめなものに選り分け、
よりまじめな対抗仮説以外の仮説は却下してもよいとする立場である。
たとえば、「夕立が降った」という主張に対して、デーモン仮説はふまじめな対抗仮説である。
この世界が本当に存在していようといまいと、
突然雨に濡れて嫌な思いをしたり、もう一度洗濯しなければならないことには変わりないからだ。
この場合、主張をおびやかす(まじめな)対抗仮説としては、
「地面が濡れているのは誰かが水を撒いたためで、実は夕立は降っていない」
といった仮説が考えられる。

◆第4章「『価値観の壁』をどう乗り越えるか」
「目の前にコップがある」「夕立が降った」といった主張はいわば事実の主張であるのに対して、
「死刑制度は廃止すべきである」などという主張は価値主張と呼ばれる。
価値主張には絶対的な答えは存在しないが、
クリティカルシンキングを用いて少しでもマシな答えを導こうとすることはできる。

価値主張も、その主張に理由付けがなされるのであればそれは前提であり、
前提が存在する以上は哲学的には「議論」であると言える(価値的議論)。
価値的議論は、常に前提に価値主張を含む形に再構成できるという特徴を持つ(実践的三段論法)。
たとえば「中絶をしてはならない」という価値主張に対して、
「なぜなら中絶すると胎児の生命を奪うことになるから」という前提を考える場合、
この前提と主張の間には媒介となる前提が必要である。この場合の媒介となる前提は、
「胎児の生命を奪うようなことをしてはならない」というものになる。
したがって、この前提にも「~してはならない」という形で価値主張が含まれることになる。
こういったルールは、倫理学では「『である』から『べき』は導き出せない
というスローガンによって示されることもある。

価値主張の前提も価値主張であるという実践的三段論法は、
その性質上、一度前提を疑うと前提の前提も価値主張なので、無限に疑念が続くことになる。
すると、どこまでの前提を確実な前提としてよいのかが分からなくなる。
こういった疑念と向き合う考え方を、倫理的懐疑主義と呼ぶ。
倫理的懐疑主義では、
たとえば「約束を破ることは本当に悪いことなのだろうか」といったことを考える。
倫理的懐疑主義もデーモン仮説と同じく、
何もかも疑った先に行き着くのは何も残らない不毛な地であり、あらゆる行動ができなくなる。

そこで、倫理的懐疑主義に対する文脈主義的な回答として「立証責任」を取り上げる。
立証責任とは、2つ以上の対立する主張が存在する場合に、
自分の立場が正しいということを積極的に示す責任のことである。
この場合、2つのうちどちらが立証責任を負うのかが問題になるが、
それはおおむね重大な方、特殊な方に課せられることが多い(事例にもよるので一概には言えない)。
ある共同体で現在受け入れられている倫理規範が正しいかどうかを考える場合は、
それを正しくないと主張している方に立証責任が課せられることになる。
この場合、立証責任を課せられていない方は、いったん倫理的懐疑主義の手は逃れたと考えてよい。

◆第5章「みんなで考えあう技術」
一人でクリティカルシンキングをして辿り付いた、「これは絶対に正しい(正しくない)」
と思っていることも、立場の違う者同士で同じクリティカルシンキングをすれば、
それに対して他人が異議を唱えるということはありうる。
しかしこれは、4章までに紹介したツールを使えば実際にはかなりのところまで解消可能である。
ただ、それでも根本的な価値観の食い違いから調停が難しい場合もある。

その場合の解決方法として「手続的正義」というものがある。
これは、その場で誰もが認めるやり方で対立する各意見から1つを選び出すというもので、
よく使われるのが民主主義社会における多数決の原理である。
ただしこれは、未来の問題にかかわる場合は、
まだ生まれていない人は投票に参加できないので正常に機能しない。

お互いにまったく違う世界観でものごとを見ているような場合は到底話し合いは不可能であり、
これは通約不可能性と呼ばれる。
通約不可能性を乗り越えるのは多人数でクリティカルシンキングを実践する第一歩である。
この場合はまず、相手の異文化を理解しようとする姿勢がお互いに求められる。
この作業を通じて、相手の意見を理解することで自分の意見が変わることもありうるが、
それは譲歩ではなく、
物の見方を一段階上のレベルに押し上げたという意味で「地平の融合」と呼ばれる。

クリティカルシンキング全体に言える心構えとして、間違いを認めて改めるのは重要である。
これができなければ、クリティカルシンキングはほとんど意味がないと言ってもいい。
しかし、人は批判されることに弱い。批判されるとついつい頭に血がのぼるものである。
そのための心構えとして、自分の意見に感情移入し過ぎない、
プライドを高く持ちすぎないという姿勢は重要である。
また、自分に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではない、と考えることも重要である。

*  *  *

以上、本書の概要でした。
実はこの本、自分は2017年初頭に買っています。
それからしばらく本棚に寝かせていたのですが、夏頃に一度読んで目から鱗が落ちた記憶があります。
ただ、その時点では自分にとってはかなり難解だったので、
後に買った『はじめての哲学的思考』(#5760『哲学の始め方』2019年09月27日
の方を先に攻略しました。
本書は2018年にリベンジして読書録を書こうとするのですが、ここでも2章で挫折してしまいました。
さらに時を経て2020年、3周読んでやっと上記の要約が完成しました。
なので、自分はこの本を合計5周読んだことになります。
理解力が無いと本を読むのも一苦労ですね。
でも、自分なりにこの本は相応の価値があるという確信がありました。後悔はありません。

本書は、哲学の入門書であると同時にクリティカルシンキングの入門書でもあるので、
「入門書を読んだら次何を読めばいいの」という人のための読書案内が付録でついています。
また、各章は「クルマと飛行機どちらが安全か(第1章)」
「ダーウィン進化論と今西進化論(第2章)」「生きる意味とは何か(第4章)」
「地球温暖化対策は本当に必要なのか(第5章)」といったようにテーマが定められていて、
哲学以外のいろいろなトピックスも学べて退屈しません。
気になった人はぜひ要約で満足せずに本書を手に取ってみてください。

いろいろと感心するところはありますが、
まず何よりも「やっぱりそうだったんだ」と思ったのは「思いやりの原則」ですね。
議論というのはいわば共同作業であり、勝ち負けを決めるものではない。
自分も今までどれだけ藁人形論法に苦しめられてきたことか……。
特にネット上のトラブルはほとんどがこれだったように思います。
通約不可能性があり、相手がこちらの世界観をまったく理解しようとしてくれない。
もちろん自分が相手の世界観を理解しようとしなかったという一面もあるとは思いますが。

クリティカルシンキングは、別に対人トラブルを解決する魔法というわけではありません。
なのでこの分野を深めたところで、対人トラブルに遭わなくなるかといえば、そうではない。
別に自分はそういうことをこの本に求めているわけではありませんが、
でもそういう分野でもこの本の考え方は非常に有用であるように思います。

それはそれとして、やっぱり個人的には哲学の本領は日々の疑問に対する本質を掴むことですね。
たとえば自分が考えていることは妥当なのかそうでないのか、
その基準がなく主張がふわふわとしてしまうことってよくあると思うんです。
そういうときに批判的思考法を使って自己批判し、よりよい答えを導けるようになったとしたら、
それは文字通りに思考のレベルアップになると思うんですよね。
そういう意味での期待感はかなりあります。
あとは、批判的思考法を学ぶと話し合いの際に本質を掴みやすくなるかもしれませんね。

とにかく多方面でのメリットが大きいので、
ここで書かれていることは何度も復習して実践して身に付けていきたいところです。

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