#6268

復讐の話


独り言

近年の僕はよく読書や勉強をするようになった。
習慣の定着には平均66日かかると言われるけれども、その山は越えられたように思う。
日常の中で本を読む時間があるのがある程度当たり前になり、
その中で少しずつ、本当に少しずつ自分の世界を広げている。

ここに至った要因はいくつかあると思うが、
ターニングポイントになったのは2017年に読書のための読書をしようと思い立ち、
たまたま書店で巡り会った外山先生の『乱読のセレンディピティ』と出会ったことと、
本を読むための環境として、当時の後輩にカフェを勧められたことが非常に大きい。
また、勉強の最大のライバルでもあったゲーム文化が衰退してきたことも大きな要因である。
それに、ブログという読書の成果をアウトプットする場所が存在することも強い後押しになった。

けっして無理をして勉強をしているわけではない。
なるべく自分の好奇心に忠実に学んでいる。意欲が出ない日は無理をせず休むつもりでいる。
にも関わらず、最近はますます勉強時間が増える一方である。
それは客観的に見れば喜ばしいことなのかもしれないが、その行動には疑問も生じてくる。
すなわち、「自分はなぜ勉強するのだろう」という問いである。

僕は、平均的な日本社会の若者の中でカテゴライズすればおそらく「負け組」に位置する人間である。
一般的な大卒相当の知識があるとはとても言い難く、その意味で頭は悪い方に分類される。
どこで道を誤ったのか、はっきりとしたきっかけがあったわけではないが、
いわゆる勝ち組の道を逸れたと確信したのは中学時代だった。
当時、僕の通っていた地方の公立中学校といえば、
少し悪いことをするのが格好いい、背伸びして大人らしく振る舞うのが格好いいとされていた。
小学校時代、あんなにみんなで一緒に夢中になったゲームにはツバを吐き、
運動部でしごかれ、女子にへつらい、腰の下までズボンを下げ、靴を履きつぶし、
体育館裏でタバコを吸い、親の金を盗み、酒を飲むのが美徳とされた社会だった。

その「常識」についていけない人間は人間扱いされなかった。
僕はその歪んだ社会のカースト最下位として、
同じく反抗期の価値観についていけない3人とよく遊んでいたが、
そのうち1人が猛烈ないじめを受けていた。
面倒な学校行事は全部やらされ、男子トイレで数人にリンチを受けていた。
僕はとばっちりは受けなかったが、いじめの主犯格に軽度な意地悪をされることはよくあった。
クラスの大多数に見下されていたことは間違いなかったと思う。
助けは求めなかった。同情されれば連鎖的にその人も見下される恐れがある。
したがって、僕たちは孤立する以外に選択肢は無かった。

僕は、小学校時代まではそれほど頭が悪い方ではなかった、むしろ良かった方だと思う。
勉強というのは「簡単すぎてつまらないもの」というイメージの方が強かった。
ところが中学に入っても価値観を更新できず、周囲に怯えながら過ごしていくうちに、
「自分はクズだ、負け組だ」という信念を疑わないようになっていき、
そうしていつの間にか勉強にもついていけなくなっていた。
二次方程式の解き方がどうしてもわからずに、数学の先生を捕まえて訊きにいった覚えがある。
数学はなんとか食らいついていったが(後に数IIでリタイアするが)、英語はもう無理だった。
英語の担当教師は、上記の「反抗期の価値観」の味方だったのである。
大人になろうと背伸びする「正しい人たち」を応援し、大人になれない僕たちを排斥した。
だから、たとえば関係副詞のことが分からなくて訊きたくても、誰にも訊けなかった。
そうして、英語に対する苦手意識はどんどん広がってそれがそのまま勉強への苦手意識になり、
「自分には勉強ができなくてもゲームがあるからそれでいいや」
と、高校受験を控える頃にはゲームに逃避する姿勢が完全にできあがっていた。

大学時代から20代までの僕は、高校時代を「良い思い出」として振り返ることがあったが、
言ってしまえば高校時代も多少治安が良くなっただけで本質的には中学時代と変わらない。
ただ味方が多かったので危機意識が芽生えなかったのだと思う。
多少勉強を頑張っても褒められない一方でゲームをすることでますます承認を得られるようになり、
「ゲームさえあればいい」という価値観はますます強固なものになっていった。
対照的に現実世界の未来には絶望を思い描くようになった。
これは、高校時代のブログ黎明期に自殺願望をほのめかす記述があることからも明らかである。

勉強を頑張らないとこの先大損する、ということに独力で気づいたのは受験の2ヶ月前だった。
あまりにも手遅れだった。
そうして僕は関西にある第一志望の大学に落ち、
受験時偏差値50(2021年現在はボーダーフリー)の地方私立大に行くことになった。
お金のチカラで大学院に入ったことで最終学歴をロンダリングしたとはいえ、
受験を頑張らなかった証である底辺地方大卒という烙印はもう一生訂正することはできない。
その証拠はこれからも一生履歴書に残り続ける。

僕は、この過去を強く悔いている。
中学のあの凄惨な環境で勉強するのはさすがに難しかったかもしれないが、
それならばせめて高校から頑張れば良かったのに。
そうすれば、僕があんなにバカにされたり、見下されることもなかったのに。
なんとかして僕をバカにし、見下してきた連中を見返すことはできないだろうか。

――勉強を支える意欲は知識欲だけとはかぎらない。確かにそういう欲求が僕の中にはある。
これを頑張ることで過去の過ちを清算し、他者を見返し、他者よりも上に立ちたいという欲求。
すなわち、僕がいま勉強を頑張れているその根源的な動機は、復讐であると言うことができる。

それは負け組ならではの欲求である。
僕が中学時代に躓いて負け組にならなかったら、今頃勉強なんてしていないと思う。
負け組であるということに対する劣等感に耐えられないから学校生活が終わっても勉強するのである。
もちろん、劣等感とは別に諸々のトピックスに対する純粋な好奇心もあるから、
勉強のすべての根源が復讐であると一概に言い切ることはできないけれども、
復讐心がいまの自分をある程度支えているというのは可能性としては大きいと思う。

いまのところまだ反証できていない僕の経験則に「負の感情はたいてい思い込みである」
というものがある。
この復讐心も、いわば思い込みなのだろう。
自分を見下すクラスメイトをでっち上げて、それに対する劣等感を原動力にしているけれども、
実際にクラスメイトがいまも僕を見下しているかどうかは確かめようがない。
(中学時代に見下されていたという事実はほぼ99.9%間違いないとは思っているが。)
確かめようのないことを、自分にとって都合の悪い方を想定することによって自分を縛っている。
心の弱い人には、多かれ少なかれそういう傾向があるように思う。
自分が弱いのは誰々のせいなのだと言い訳することで、責任を回避しようとしている。
不毛な妄想と言ってしまえばそれまでである。

では、不毛な妄想から生まれた勉強という行為は不毛なのだろうか。
負の感情は確かに不毛な妄想をもたらすのかもしれない。
しかし、どういう動機であれいま自分が勉強できていること自体は人生にとってもメリットが多く、
これを動機が不純だからといってやめる必要性は乏しいように思う。

このことから分かるのは、行動以前の段階では善悪の判断はできないということである。
ポジティブな動機から良い行動を生み出すことは当然あるけれども、
ネガティブな動機から良い行動を生み出すこともある。おそらく、逆も然りであろう。
学生時代のクラスメイトに対する復讐心、劣等感はネガティブな動機だけれども、
それによって生み出された勉強という行動はポジティブであると考えることができる。

人は、ネガティブな感情をポジティブな行動に転化する能力を持っていて、
それこそが社会で生き残る上で重要なスキルなのではないだろうか。

人生には負の感情は付きまとうものである。
生きづらい、誰かに嫌われたかもしれない、承認欲求が満たされない、他人を見返したい……。
しかし、負の感情を「与えられた課題」であると認識し、
どうやったらそれをクリアできるかを考え尽くすことによって、
結果的に負の感情が起きなかったときよりもより良い行動に繋げることができる可能性はある。
負の感情が起こったら立ち止まって考えるというのは、
より良い行動を生み出すのに必要なステップであるといえるだろう。
重要なのは、ネガティブな感情が巻き起こっても、ポジティブな行動に変換が可能だということだ。
僕がいま生涯学習を始めようとしているのは、
確かにきっかけは学生時代の劣等感や復讐心だったかもしれない。
しかしそれ自体に罪はなく、その原動力を勉強というものにぶつける覚悟ができたのは、
ようやく一歩成長できたと言えるのかもしれない。

過去は変えられないが、今から先は変えられる。
行動する自分がどの方向へ踏み出すのも自由であり、動機はそのためのエネルギーにすぎない。
ネガティブだから後退しなければならないということはなく、そこには考え尽くす余地がある。
そうして自分を律していくことで、ようやく人は前を向けるのではないだろうか。

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