#6271

超長期的集約計画


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先日、先週末の日曜日に丸の内の書店に行って「おっ」と思ったけれど、
そのときは買わなかったとある本が気になっているという話を書きました。
その後もどうも頭の片隅から消えて無くならないので、
我慢できずにちょっとネットで調べてみると、ますます興味が湧いてきました。
その本というのは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』という哲学書の解説書です。
丸善丸の内本店の3階で、哲学コーナーと称して特集されていました。
『論理哲学論考』は超ざっくりいうと、記号論理学に影響を受けた分析哲学の始祖とも言える本です。
分析哲学というのは、これもざっくりいうと、
いままでの哲学というのは頭の中の「見えない部分」を対象としていました。
たとえば、神とは何かと考えたときに頭の中に思い浮かぶ像について考察してきたわけです。
しかし分析哲学は、そういった他者から見えないものを対象にするのではなく、
たとえば神について考えるのであれば「神」という客観的にも認識できる「言語」を対象とし、
そしてその分析には「論理学」というこれも客観的に認められたツールを使います。
(以上は本当に浅く調べただけの知識なので語弊があったらすみません。)

これはなかなか面白そうだと思いました。
偏見ですが、自分は哲学書というとその哲学者が言っていることが絶対に正しくて、
あとは解釈があるのみという、どちらかというと宗教に近い物を感じていたんですね。
だって、哲学者の言っていることなんて証明不可能じゃないですか。
要は、科学的ではないわけです。
ところが分析哲学はそうじゃないというから期待が持てます。

『論理哲学論考』について調べてみると、主な命題が7つ挙げられています。
すごいですよね、哲学書がたった7行に凝縮されているんですよ。
オーストリアの天才がその7行に至った経緯は一体どのようなものなのか。
もう我慢できなくなって、今日は平日にもかかわらずわざわざ丸の内に行きました。
ところが、日曜日にあった哲学コーナーが無くなっている!!
いろいろ探し回ったんですが、解説書は見つけられませんでした。
いきなり哲学書そのものは自分の頭では難しいと思ったので、まず解説書を読みたかったんですが。

哲学書そのものは見つかったのでちょっとだけ立ち読みしてみましたが、
なんとなくコレジャナイ感がありました。というのも命題に続くのも全部命題。
7つの命題それぞれから小さな数百という命題が箇条書きに枝分かれてしているという構成で、
別に7つの命題を支える解説だとか根拠だとかは書かれていないみたいなんですよね。
「なぜそこに至ったのか」が知りたかったのですが、
ウィトゲンシュタインはそれ自体は哲学書に記述していないみたいです。
正確には、おそらく小命題が大命題を支えているという意味での経緯は描かれているのでしょうが、
一般人が読むにはあまりにも難解すぎます。

結局今日は何も買わずに帰りました。
今週末日曜日、書店が休みみたいなので、日曜日行った分と思えばまあいいかという感じです。
というわけで、ウィトゲンシュタインを読むかどうかは保留中というところですが、
その副産物として、ウィトゲンシュタインを追い求める過程で、
ブログの運営方針としてのある種の超長期的目標ともいうべきものを思いつきました。
それは、すなわち「集約」です。

このブログには、自分が自分なりに考え生み出した生活教訓が無数に残っています。
それはいわゆる哲学にはほど遠いかもしれませんが、
自分なりの哲学という意味で自分哲学と呼んでいます。
たとえば、前職時代の末期にはこんなことを書きました。

話もしないで他人を理解した気になるのって危険だと思うんですよ。
#5569『褒められない机』2019年03月22日

これは自分の中ではいまのところ概ね間違ったことは言っていないと思っています。
例えば、話しても理解した気にはなってはいけないとか、
そもそも他人なんて理解できないとかいろいろとツッコもうと思えばツッコめますが、
このまま否定文にするのは難しい気がします。
こういう文は価値主張といいますが、価値主張にそもそも絶対正しい答えはありません。
ということは、絶対に間違っていることもないわけです。

ただ、根拠や理由づけが乏しいんですよね、自分の場合。
これら生活教訓はただの経験則です。上記の一文はたしか、引き継ぎ業務をするにあたって、
年配の後輩がなかなか覚えが悪いのでイライラしていたら、
帰り際に思いのほか優しく声をかけられたので相手のイメージが覆ったという話でした。
そういう経験から絞り出した価値主張は、「自分の中では正しい」です。
ただ、他人にとっても正しいと明言することはできない。それは他の主張も常にそうです。
他人にとっては納得できない主張である可能性もある。

とはいえ、ひとつひとつの主張について他人の意見を聞くことは個人ブログでは不可能です。
なので、自分は「他人にとっての真理」なんてとっくに諦めています。
だから利用規約にもこのブログは個人的意見であって客観的な事実は書いてませんと明言してます。
ただそれはそれとして、執筆時点では正しいと思ったことが果たして未来の自分も納得するのか、
というのは気になるところだし、そこはブロガーとして追求する価値があると思っています。
つまり自分個人としての主張が、人生全体で筋が通っているのかどうか。

たとえば、ブログに埋もれている無数の主張を集めたとき、
別の経験則によって同じようなことを言っている主張があったら、
その主張は自分にとってより大切な価値のある主張と言うことができると思います。
逆に、同じような経験でそれぞれ相反することを言っているのだとしたら、
それは「時と場合による」のであって、弱い主張と言えるでしょう。
睡眠に関しては試行錯誤しているのでそういう弱い主張が多い気がします。

そんな風に主張の価値を決めていったとき、果たして生涯で一番価値のある主張は何なのか?
それが自分にとっての『人生の結論』になるのではないかという期待があります。
もちろん、同じような主張を何回もしたからといってより価値があるのかというのは、
議論の余地があります。そこはまた何らかの複雑な計算が必要になりそう。
あるいは、これこそ分析哲学の対象として、論理的に検討できるのでしょうか。

主張を整理すれば、自分が忘れてしまっていたような信念も思い出せるし、
いま気になっている疑問にも昔の自分が答えているかもしれません。
また、経験則に基づく主張を元に、さらに新たな主張が生み出せることも期待できます。
そういう場合は世代管理もできるといいですね。
肝心の主張の整理については、当然人力では不可能なので、
こないだも話題にした自然言語処理などの人工知能プログラミングが必要になると思います。
自動タグ付与といいこれといい、〈ブログ×AI〉でやりたいことはたくさんあります。
この場合は、〈ブログ×AI=自分哲学〉ですね。

要するに、自分もウィトゲンシュタインみたいに、
膨大な経緯を背負ったごく短い文句で自分なりの哲学を表現できたらいいなという話です。
何十年かかるかはわかりません。たぶん自動タグ付与よりも難易度は高いと思います。
ただ、16年間積み重ねて今後もまだまだ永く積み重ねていくブログ執筆という行為を、
最終的に有意義で明快な形にするプロジェクトとしては、なかなか有望だとは思いました。
遠い将来こういうことをするという意識があれば、
有意義なことをもっと書き残しておきたいというモチベも上がりますしね。

そんなわけで、哲学書を追い求めた結果、
思わぬところでブログの遠い将来に希望を抱いた一日でした。
今日は00時就寝07時15分起床。仕事はミーティングがかなり長引きましたが概ね楽な一日でした。
なお、丸の内に行った関係で今日すべきだった勉強も掃除もできていません。
明朝は出勤前にNintendo Directがあるので今日はさっさと寝ます。

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