#6325

価値観の話


独り言

どうもここが、人間不信に陥るか他人を許容できるかの人生の分かれ道になっている気がするので、
先の出来事について蛇足ではあるがもう少し考えてみたい。

先日、僕は17年前のクラスメイトに対して強い失望感を覚える出来事を経験した。
それについて深く考えてみると、実際には相手そのものに失望しているのではなく、
相手を通して見た「自分自身」に失望しているのだという考えに至った。
そして失望した「自分自身」を正当化するために自分の良心をあざむき、他人を裏切った。
つまり、客観的にみて合理的な行動が何なのかを薄々知っているにもかかわらず、
あえてそれを選ばずに自分の自尊心だけのために他人に対して攻撃的な行動を取った。

なぜそうしてしまうのかを考えた結果行き着いたのは、
「もうこれ以上否定されたくない」という強い自己否定感、自信のなさが根本にあり、
その根本は、自分は努力すべきときにしなかったという事実が支えているということだった。
それは、自分は他人の努力結果を素直に称賛することができず、
そのすべてが自分を否定する言葉に聞こえてしまう呪いなのだと思った。
特に、努力の過程が見えない人の関係――もう数年以上会っていない人たちや、
あるいはインターネット上だけの関係――においては、その呪いを払拭するのは難しい。

この呪いがあるかぎり、自分はどんどん社会性を失っていく。
他者から信用されなくなり、孤立を深め、それによりますます努力をする理由を得られなくなる。
この悪循環から抜け出すには今後どうすればいいのか。
先の考察ではそこに至る明解な答えは得られなかった。
強いて言えば、昔の自分がふがいなかったせいで今の自分があるということが分かった、
というくらいのことだった。

しかし「昔の自分が努力不足だったせいでこうなった」というのは、反省でもなんでもないと思う。
過去に原因を求めても、いまの自分はどうしようもできない。
どうしようもできなかったことを原因に据えると今後改善の余地がない。
それは結局のところ「逃げ」であり責任転嫁以外の何物でもない。
失敗したのなら、何がどういけなかったのかを考えるのは重要なことだが、
それ以上に今後の自分ができる範囲で何をすれば改善するかを吟味することは、
当然ながら同じ過ちを犯さないためにもっとも重要な思考プロセスであると思う。
そこを放棄して原因をいまの自分以外の何かに決めつけて無理やり完結させたところで、
心にわだかまる不満や不安、劣等感、自己否定感は払拭することはできない。

ということでもう一歩踏み込んで考えてみると、
努力不足かどうかというのは、何らかの基準との相対関係で決まるように思われる。
そしてその「何らかの基準」というのは、
自分が帰属するグループにおける、自分から見た平均的イメージで決まるのではないだろうか。
僕が17年前のクラスメイトに対して強い自己欺瞞に陥ってしまうのは、
クラスメイトの「17年後の姿」を想定するステレオタイプに対する現状の自分が、
とてもふがいない立場であるからだと思う。
そのステレオタイプは、「理想の自分の姿」も多分に含まれているように感じられ、
多くの場合は自分に劣等感を覚えさせるイメージとしてできあがる。

実際にそのステレオタイプが正しいのかどうかはわからないし、
自分にとって極端に都合の悪い妄想でしかない可能性は大いにある。
本来はステレオタイプと実際の他人を乖離させないためにコミュニケーションがある。
しかし、それもままならないとき、このギャップはどうやって埋めるべきなのか。

自分が知りようのないことを悲観的に捉える癖は自動思考と呼ばれ、これはうつ症状の一種である。
認知行動療法の分野では、この自動思考を克服するためには、
まずは自分が自動思考に陥っているかどうかに気付けるかどうかが肝要であるという。
あるグループや人のステレオタイプが自分にとって都合が悪すぎる場合は、
本当にそれで合っているのだろうかと妥当性をチェックするプロセスを噛ませることが望ましい。
そのためには自分が確実に知っているその人のことを
多角的に書き出してみて客観視するのも有効かもしれない。
そうすることで、ステレオタイプが実は1つだけではないことに気づくことができる。
このように、自分の無自覚な思考回路に原因を求め、それを是正することを試みる。
これが今回の件についての反省のひとつめである。

ふたつめは価値観の壁を乗り越えることである。
先の記事で自分は、自分が面倒くさい人間なのかそうでないのかがわからないと書いた。
そこまで自覚するくらいなら客観的に見て面倒くさい人間なのだろう。
そう思う理由として、自分がしてきた過ちのひとつに「価値観の侵犯」があると思う。
思い返せば今までに起きた対人トラブルのほぼすべては、
自分の価値観で他人を推し量ったことに起因するように思う。

何が善くて何が悪いか、何が大事で何が大事ではないかという価値観は
その人の人生経験に基づいて作られる。したがって、価値観の組み合わせは人の数だけある。
自分が絶対にこれは間違いないと信じている信念も、
他人から見れば無数にある価値観のうちひとつでしかない。
ただし、価値観は共同体(地球、国、地方、会社、家族、友達、その他のコミュニティ)の中で、
より良いものもそうでないものも情報伝達を通じて人と人の間で共有、交換されたりもする。
また、同じ共同体に住んでいる人たちは似たような人生を送っていることも多々ある。
そのため、同じ共同体の中では同じような価値観を持っている人が多くいる傾向にある。
より多くの人が持つ共通の価値観は、その輪の中において常識や倫理、道徳と呼ばれたりもする。
たとえば「人を殺してはいけない」という価値観はより大きな共同体が持つ倫理だろう。
そういう、ほとんど誰もが納得しているであろうレベルの高い価値観もあれば、
ほぼ自分にしか通用しないようなレベルの低い価値観もある。

ここで問題になってくるのが、価値観のレベルは個人の欲望の影響で見誤りやすいことである。
さきほど、同じ共同体では同じような価値観を持ちやすい傾向にあると書いた。
しかし、だからといって必ずしも
自分が属する共同体の人が自分と同じ価値観を持っているとはかぎらない。
自分の価値観を同じ共同体の人全員が持っている常識であると錯覚してしまうと、
それに当てはまらない他人の価値観を排除することになる。
自分の人生にとっては真理でも、そもそも他人が自分とまったく同じ人生を歩んできたはずもない。
だから、自分の個人的な価値観を
あたかも共同体全体の常識かのように主張するとトラブルになることが多い。

それは言い換えれば他人の価値観より自分の価値観を優先してほしいという意思である。
この人に理解されたいという思いが強くなればなるほど、
自分の価値観のレベルを高く見積もりやすいのではないだろうか。
また、そうなると同時に、無自覚にせよ他人の価値観をないがしろにしてしまっている。
当然、相手にとっては不愉快なので受け入れがたい。
そして人は自分の価値観を理解されなかったと確信したとき、自己欺瞞に陥る。
結局、人が人を嫌うのは、その人に理解されたいという気持ちの表れなのだろう。

自分の価値観のレベルを見誤らないようにするにはどうすればいいのだろうか。
そのためには、まず他人の価値観を理解することに徹する姿勢が重要であるように思われる。
価値観のレベルを見極めるためには、自分の価値観だけ知っていても仕方がない。
自分以外の価値観の経緯や成り立ちもよく知って吟味する必要がある。
聞くことに徹すれば、価値観の集合のうち自分だけのもの、他人だけのもの、
共通のものが浮かび上がってくる。
例えば相反する価値観も、もっと深いところで共通の根から枝分かれているかもしれない。
その共通のものについては、他人も納得できるのだからレベルの高い価値観として扱ってよい。
一方、他人とは相容れない部分は、
その他人との関係において自分だけが独自に持つレベルの低い価値観であり、
それを自分で否定する必要はないけれども、その他人に強要することはできない。
同様に、相手だけが持つ価値観も自分が無理に受け入れる必要はない。
ただし、自分だけが持つ価値観が共同体のルールに反する場合はその限りではない。
(ルール、法律といった概念もまた個々の価値観や共同体の常識に強い関連性があると思うが、
それについて掘り下げるにはまだ自分の知識が足りないので、これはまた今度考察することにする)

価値観のレベルを高く見積もりすぎることの要因に、
自分の人生が生み出した価値観を、自分そのものとして捉えてしまう距離感の問題があると思う。
自分の価値観を否定されたときに、あたかも自分自身を否定されたような気になってしまう。
なぜなら、他人の価値観を受け入れられない自分にとって、
自分の価値観というものは自分にとっての唯一の拠り所だからだ。
だから自己欺瞞に陥ると、唯一の拠り所を守るために他人を悪者に仕立て上げ、攻撃する。
それは自分の価値観だけは正しいと信じたいという気持ちがあるからに他ならない。

結局のところ、自分の価値観に絶対的な価値を感じてしまうのは、
自分以外の価値観を知らなすぎること、
すなわち人生におけるコミュニケーションの偏りが災いしているのかもしれない。
思えば今までにトラブルに発展した相手とも、
十分にコミュニケーションをしてこなかったケースがほとんどであったように思う。

したがって、僕がいますべきことは他人の価値観を知り、
それによって自分の価値観のレベルを把握することだ。
そのために一番望ましいのはやはり身近な他者と直接情報交換することだと思うが、
それができなければ書籍、テレビ番組、動画サイト、SNSなどなど、情報媒体はいくらでもある。
要するに、教養を豊かにすることが価値観の壁を乗り越えるもっとも簡潔な解決手段だといえる。

もっと言えば日本語の情報ばかり集めても国レベルの価値観は乗り越えられないので、
いずれは言語の壁を越えて知る努力も必要になってくるだろう。
特に重要なのが、「自分が受け入れがたい価値観」を持っている人に対する理解であると思う。
自分にとって都合の良い情報ばかり集めても、自分だけの価値観を強化するだけだ。

さて、ここまで考えてようやく僕は今回の件を具体的に反省することができる。
先日衝動的に書いた、「思いやりのスキルを伸ばすほど人間関係に亀裂が入る出来事が多くなる」
というジンクスは単なる気のせいではなかった。
ここでいう「思いやり」が本当の意味での思いやりかどうかはさておくとして、
「人はこうあるべきだ」という自分にとって都合の良い価値観を見出すたびに、
自分の価値観を絶対視する態度は強固なものになっていき、
同時に無自覚にそれに当てはまらない他人の価値観をないがしろにしていたということなのだろう。

また、その思想は長年続けているブログも大いに荷担してきたと思う。
ブログというのはきわめてレベルの低い個人的な価値観の集合であり、それ以上はない。
無論この記事とて例外ではない。
ブログに個人的な価値観を書き綴り、それを後年の自分が客観視し前提とした新しい価値観は、
自分にとっては昔の自分より発展したよりよい価値観であるように思われるけれども、
他人から見て価値観のレベルが上がっているとは言い難い。
唯一の例外として“読書録”があり、これは本を通じて他人の価値観を取り込めるけれども、
これもまだ歴史が浅いので大きな影響を残しているとはとても言えない。

また、先の考察で行き着いた自己責任論もまた、価値観の押しつけである。
自分のネガティブな思考の原因は常に自分にあるというのはある意味で潔いと言えるかもしれないが、
その文脈の裏には「他人のネガティブな思考の原因は自分ではない」という意味をも内包しており、
そこには自分の意見を絶対視する独善的な価値観が見え隠れする。
原因は常に一人に、ひとつに決めつけられるとはかぎらない。

他人を自分事として捉えない、というのは、今回の件を経て得られたひとつの教訓である。
他人という存在は基本的には未知である。
そしてそれを勝手に脳内補完する際には認知のゆがみ(自動思考)が反映されることが多い。
人は他人というよくわからないものの正体を手っ取り早く知りたいと思う本能があるのだろう。
自分にとって身近な存在であればなおさらその思いは強くなると思う。
しかし真なる他人と向き合うためには、その他人の生の声に耳を傾けるしかなく、
それをせずに自分のものさしで他人を推し量ったところで得られるものは妄想でしかない。
そしてその妄想はしばしば、他人との関係性をむしばむ。
他人の声を聴けないのなら、正体不明のまま何も語らない勇気も必要なのだと改めて思った。

そして、自分が絶対に正しいと思う、あるいは正しくないと思うその価値観は、
自分という個人にパーソナライズされた正義であり、必ずしも広い社会には通用しない。
しかし、自分は自分だけは正しいと思いたい生きものなので、
パーソナライズされた正義は自分そのものに癒着し、なかなか離れない。
それを引き剥がすには少なからず他人の協力が必要である。
それはたとえば、自分とは反対の意見を持つ人と意見交換をするいった行動が考えられる。

自分の価値観が絶対ではないという気付きは、しかしひとつの希望を与えてくれる。
まず、他人に自分の価値観を否定されたとしても、
それは「自分そのもの」を否定されたわけではないということだ。
否定されたそれは自分の中に無数に存在する価値観のうちひとつでしかない。
もうこれからは自分の価値観を何が何でも守らなくてはならないという責務を感じる必要はない。
自分の価値観を守るために他人との関係性を犠牲にする必要もない。
それに自分の価値観が絶対ではないということは、他人の価値観もまた絶対ではないということだ。
ある人に否定されたからといって、それが必ずしも間違っているという保障はなにもない。
それは、その人から見て自分の価値観が「自分だけの価値観」であるというだけの話だ。

人と人がわかりあうことは難しい。
完璧な相互理解などありえず、それを期待してはならない。その意味において人は生涯孤独である。
でも、だからこそほんの少しでもわかりあえたら素晴らしいのだ。
そんな思いに至って、ふと17年前に何の気なしに作った詩のフレーズがふと頭をよぎった。

「『わかる』って言ってくれたらそれだけで誇らしい」
#494『勇気の詩』2005年10月15日

17年間、こんなに大切なことをなぜ忘れていられたんだろうとしみじみ思った。

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