#6331

守り抜きたい価値観


空想

昨夜でいちおう決着がついたはずの一連の問題は、
自己欺瞞に陥った自分がすべてにおいて悪者だったという結論に至りました。
そして、今後はそうならないためにどうするかを考えた結果、
自分の価値観を絶対視しないこと、他人の価値観に耳を傾けることが重要だと分かりました。
ところが、昨夜実際に他人の価値観に耳を傾ける機会があったので実践してみたのですが、
それは思ったよりもはるかに難しい所業であるらしいことがわかってきました。

自分がこんなに強く悩んでいることも彼は平然と「それは違う」と言いのけてしまう。
結局自分が自分の価値観を守り抜かなければ、それがたとえ時代遅れのガラクタだったとしても、
他人に預けたらすぐさまバラバラに分解されてしまうのだと思いました。
自分にとってはそれはいままでに自分が生きてきた証そのものであり、
絶対視しない方が良いと分かっていても、やはり守り抜きたいと思う本能があります。
価値観の共有のためには自分の価値観をいったん相手に預けなければならない。
しかしそれができないというのは、信用の問題なのでしょうか。

自分の価値観を絶対視しないために他人の価値観に耳を傾ける、
というのは机上論では正しいように思っていましたが、実践してみるとただの理想論でした。
やはり自分とは相容れない人との価値観の交換は難しい、というかかぎりなく不可能に近い。
自分にそれ相応の覚悟がなければ、価値観の交換は自分を痛めつけるだけで終わります。
そして自分にとってどうやら彼は、
相容れない価値観を持っている人なのだろうという結論に至りました。
そして、そうであれば無理に関係を続けていく必要性も薄い。
世の中、彼らだけが他人ではないのだから。

いまの自分にとっては、そういう人よりも、
自分の価値観が時代遅れのガラクタだとしてもそれを理解してくれる存在を大切にしたいと思います。
なぜなら、自分の価値観をすぐに変えるのは非常に困難だから。
価値観というのは大人になってから本を読んだり誰かに教えられて作られたものもありますが、
もう記憶に残っていないような幼少期の経験や遺伝によって作られるものも多くあり、
そういった個々人の生まれついての特性を克服するのは容易ではありません。
それを克服しなければ維持できない人間関係なのであれば、切ってしまうのが合理的だと思います。
その結果孤独になるとしたら、それがその人にとっての生まれ持っての運命なのだと思います。
自分の価値観を否定してその運命に抗うよりも、
運命に寄り添ってその中で最善の道を探す方が、人生幸せになれるんじゃないかなと思うわけです。

確かに自分は昔からリア充コンプレックスがありました。
自分自身は友達もそんなに多くないし恋愛事情もまるで音沙汰がありません。
一緒に遊ぶ友達がたくさんいて、一緒にでかける恋人がいたらどんなに幸せだろうと思っていました。
でもそれは、一般論的な幸せの形であって、自分個人にとってそれがベストとはかぎりません。
もしかしたら友達が多いということはそれだけ気を配らなければならない相手が多いということで、
人によってはストレスの溜まる生活なのかもしれません。

SNS全盛期のいまも、フォロワーが多い=偉いみたいな風潮があるような気がしますが、
現実的には決してそうではなくて、その人によって適性のフォロワー数というのがあると思います。
そして、それが多かったからといって偉いわけではないし、少ないからダメというわけでもない。
フォロワー数を維持するために八方美人でいる必要はないし、
むしろ適性以上のフォロワー数を持っているとそれだけ息苦しくなっていく。
価値観が合わなかったらさっさと離れればいい。
それがたとえ17年間続いてきた関係であってもです。

今回の一連の問題ないし、これまでの人間関係の問題をいろいろ考えて行き着いたのは、
別に絶対に解決しなければならないわけでもないな、ということでした。
それは昔の自分なら無責任だ、自己中心的だと批判したかもしれません。
実際無責任な側面もあると思うし、
価値観が合わなかったからといって関係を切るのは人としてどうかという道徳的な問題はあります。
ただ、それで自分が過剰に苦しむようなら、いっそのこと悪者でいい。
道徳的に間違っていても、人との関係に完璧を求めない方が幸福には近付くのかなと思いました。

そうやって割り切ることが、今後の自己防衛手段として大事になってくるのかも、
と思った土曜日の夜でした。

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