#6383

無敵思考


空想

誰にとっても反りが合わない人というのはいるものです。
もしそういう人がいっさい思い当たらない人がいたとしたら、その人は孤独な人なのでしょう。
自分もこの3年で、致命的に価値観が合わない何人かと確執を生み、
そのたびに少しずつ人間関係が狭くなっていきました。
そしてそういったイベントを経るにつれて、どんどん心が軽くなっていったことを実感します。
それは「自分は万人に好かれようとしなくてもいいんだ」という安心感でした。
明確に誰かに嫌われることで自分の中で維持してきた八方美人を追い求める姿勢が崩れ、
自尊心の再構成を経て、「ベストではなくベターでよい」というしなやかさを手に入れました。
これは他でもない自分を嫌う人のおかげだと思っています。

嫌いな人をなぜ嫌いになるのか、その理由はさまざまだとは思いますが、
自分は、ある人を嫌うのはその人が自分にとって思い通りにいかないからだと思っています。
つまり、思い通りにいかないのが気に食わないだけで本質的な意味で嫌いとはかぎりません。
むしろ自分にとってある面で重要な存在だからこそ、あれこれ思い詰めてしまうのでしょう。
自分だったらそんなことをしないのに。自分だったらこうするのに。
でもそれをしようとしないアイツの考え方は間違っている! というわけですね。
これについての結論は先日の考察にも書いた通りです(#6325『価値観の話』2021年04月11日)。
すなわち、自分の価値観で他人を計ることがそもそも間違いなのだと。
他人には他人の価値観があり、それは自分の価値観と合わないのは当たり前。
なぜならそれぞれ全然違う人生を歩み、それぞれ異なる知識体系を持っているのだから。

嫌いな人というのは、自分が受け入れがたい価値観を持っていたり、
あるいは自分の価値観をかたくなに受け入れようとしなかったりします。
いずれにしろ、それは自分にとっての盲点と言えます。
自分が異端だと思っていたことを相手は当然といい、
自分が当たり前だと思っていたことを相手は異端だと言えば驚くのは当たり前です。
しかし、それこそが人生において大事なことだと改めて思うんですよね。
よく言われる多角的な視点を持て、自分を客観視しろという言葉。
それは、自分と同じ考えで自分を常に肯定してくれる、理想の恋人のような人からは学べません。
自分が考えてもいなかったことを指摘してくれる人との関係にこそ、
自分の価値観を広げる余地があります。
ですから、自分は自分を嫌う人に改めて「ありがとう」と言いたいです。
このように嫌いな人こそが自分の価値観を広げてくれる、
だから嫌いな人に感謝しようという姿勢は、敵が敵でなくなるので無敵思考と勝手に呼んでいます。

ちなみに、相手が自分を嫌うことについてはこの考察の対象外です。
なぜならそれは自分でコントロールできる範疇ではないから。
危害が及ばないかぎりにおいては、他人が自分を嫌うかどうかというのは他人の自由だと思います。

嫌いな人は、ある意味では自分にとってきわめて有意義な友人にもなり得ます。
しかし現実ではお互いにいがみあい、疎遠になっていくばかりです。
それはもしかしたら不本意なことかもしれないのに、なぜそうなってしまうのか。
個人的には、これは「自分だけは正しい」というバイアスが働いているせいだと思っています。
人は意識的にしろ無意識的にしろ自分「だけ」は正しいと思っている。
ということはつまり、正しい自分に相反する相手の意見は間違っている。
もしもそれを正しいと認めてしまったら、自分は正しいという大前提が崩れ去ってしまう。

自分が嫌われれば、当然の流れとして自分もその人を嫌いになります。
思い通りにいかないことと並んで、これも他人を嫌う動機のひとつで返報性の法則といいます。
それにしても、自分を嫌う人をなぜ殊更に否定したくなるのか。
それは、客観的には自分を嫌う人が正しい(かもしれない)からであって、
実は心の奥底では自分の考えが間違っていることに薄々気付いているからなのではないでしょうか。
ここで相手を否定しなければ、自分が間違っていることになってしまう。
自分が正しいという考えは人間の本能でもあり、その人にとっての思考の基盤でもあり、
それを防衛するのは社会性動物としては当然の反応であるようにも思います。
もし、自分が正しいと思いたい自分の意見に何の未練も無かったら、
相反する相手の意見をすんなり受け入れられるはずです。
相手を嫌うというのは自分の意見、立場、自尊心に対する執着であるとも言えます。

自分と相反する相手の意見が正しかったら、自分は間違っていることになる。
これは論理的には誤りであり、哲学では誤った二分化と言われます。
世の中、簡単に二者択一で決められることばかりではありません。
例えば昨今、新型コロナウイルス蔓延下でオリンピックを強行しようとしている政府に、
世論などが強く反発しています。
じゃあ「オリンピックを中止する」という極論が正しいのかというと、そうともかぎりません。
オリンピックを開催したらただちに人の命が失われるともかぎりません。
中止でも強行でもなく、その間にも無数の選択肢があるはずです。
なんというか、難しい問題をあたかも二者択一かのように単純化して考えてしまうのは、
人の悪いクセなのかなとも思います。

なぜ人は、嫌いな人のことを「恋をするように」もやもやと考えてしまうのか。
それは他人の正論によって、
自分が正しいという前提や意見の二極化といったバイアスによって守られていた、
自分の中にある大切な自尊心が脅かされるからではないのでしょうか。
本当にどうでもいい相手に「死ね」と言われても、たぶん多くの人は気にしないはずです。
相手の言うことがごもっともで、自分の考えが間違っていることに気づいてしまった。
つまり自分の道徳観、人間観と自分の考えが矛盾してしまった。
それにより自分を否定せざるを得なくなるものの、それも嫌だから代わりに相手を否定する。
つまり、「嫌う」というのは本質的には一種の責任転嫁と考えることができます。

自分は正しいと思い込んでいるその価値観と他人の価値観が違うのは当たり前。
仮にその前提を正しいとすると、人と人がわかりあうのは困難のように思えます。
第一、正論を言われたからといってそのたびにいがみ合っていたのでは話し合いにならない。
人はロボットではないので、正しさだけでは生きていけません。
本当に合理性だけで行動できるのなら、世の中こんな風になっていないはずです。
努力するのが正しいからといって、誰もが努力できるともかぎらない。
相互理解のためには、ときに相手の愚かさに寄り添うことも大事なのだと思います。
論破しようと思えばできるけれど、「そうだね」と肯定してあげる。
つまり、自分の価値観をいったん棚の上にあげる利他の精神が必要なのではないかと。
双方それをしようとしない関係性においてこそ
「嫌う」という感情は生まれやすいのではないかと思うわけです。

この教訓は、17年間親交のあった高校当時のあるクラスメイトを反面教師として生まれました。
17年間の付き合いを総括して自分に言わせれば、彼は正論マシーンでした。
二言目にはエビデンスがどうの、科学的見地からはどうのこうの、
論理的にはあーだこーだととにかく「客観的正しさ」を重視する姿勢があったと思います。
一般的なイメージでいえばものっすごい頭でっかちの人間です。
それでいて自信に満ち溢れていて、自分が間違っている可能性などこれっぽっちも考えない。
だから自分は彼とのやり取りの中で自分の意見が肯定されたことはほとんどなく、
基本的には「聞き役」に徹することで関係性が続いていました。
むしろ否定されることのほうが多く、心ない言葉によって自尊心を傷つけられたこともあります。
知識も豊富で的確なことを言えるので相談相手としてはうってつけだし、
その意味では尊敬もしていたし、だからこそひとつひとつの発言に攻撃力が備わっていました。
そして一方で自分の意見が尊重されないもどかしさはずっと前から感じていました。

どこかで爆発するかもしれないとは思っていましたが、
それはあまり自覚的ではありませんでした。それは彼がかなり狡猾だったからです。
彼が自分に対して否定するときは、主語は彼ではありません。
たいてい、「誰々さんがお前のこと×××××って言ってたよ」という文脈で言ってきます。
つまり関係ない第三者をスケープゴートにして、彼が自分に対して批判したいことを言うわけです。
彼は徹底して自分だけは正しくて良い人だと思っているらしいので、
正しい自分を絶対に否定されないためにはスケープゴートは有効なのでしょう。
実際、最初は自分もその第三者を憎み、彼は味方だと思っていました。
しかしいま思えば、彼との会話で出てきた第三者は不自然に自分を否定する人が多すぎました。
それは17年という歳月もあり会話の絶対量が多いので、
ネガティブなエピソードが記憶に残りやすいためにそう感じるだけなのかもしれませんが、
結局のところその積み重ねで信頼関係が崩れていったのは確かです。

実際にスケープゴートを使って自分を叩いていたのかどうかはわかりません。
相手の会話の裏を取るすべがない以上は、これも単なる思い込みである可能性があります。
他者との関係において、自分が持っているのは事実ではなく常に解釈でしかありません。
他人の本心なんて、どう頑張ってもわからないわけです。
そして解釈というのは自分の意図次第で良くも悪くも変化させられるので、
他人を敵にしようと思えば意地悪な解釈をすればいいし、
他人を味方にしようと思えば好意的な解釈をすればよく、それはすべて自分次第です。
しかし相手の意見が自分の本心と相容れないとき、
自分は正しいという大前提のバイアスを乗り越えて相手を好意的に解釈するのは困難です。
それを受け入れられるかどうかは、言葉の説得力よりも信頼関係が強く問われるような気がします。

他人を敵にしたいから意地悪な解釈をするというのは、それもそれで公平ではありません。
本来であれば他人が真に何を言いたいのかを理解するためには、
相手の立場に立って相手の価値観で議論を再構成することが要請されます。
しかし、実際にはそれはなかなか困難です。
それならせめて何ができるのかと考えたときに自分にできることは、相手に同調することです。
完全に理解はできなくても、理解しようとする姿勢。
正論や自分の価値観を押し付けずに相手の世界観に寄り添う工夫。
そういったコミュニケーション能力が信頼関係を築き上げるのではないでしょうか。
彼と自分との関係ではそういうことの実践ができていなかったからこそ、
きわめてどうでもいいイベントがきっかけで確執が生まれ、
どうしようもない関係に落ちてしまったのだと思います。
むろん、そのイベントで勝手に勘違いし自己欺瞞に陥ったのは自分なので自分も悪いですが、
ここに至るまでの17年間マウントを取り続けてきた彼に落ち度がまったくなかったとも思えません。

結局、視野の狭さや自分が守るべき価値観の少なさ、
すなわち自尊心の貧弱さが自己防衛のために他人に対して「嫌い」という感情を生み、
また他人と同調できないコミュニケーション能力の低さが他人を敵にしているということです。
人間関係においては、正論よりも大切なものがあるような気がしてなりません。
自己肯定感が高いばかりが正義ではなく、自分の愚かさを受け入れることも大事なのかも。
自分も、もう少し器の大きい人間でありたいものです。

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