#6392

期待しないということ


空想

先日自分は、他者承認に基づいて行動することの危うさについて書きました
#6388『承認欲求への不信』2021年06月13日)。
自分は16年ほどwebプログラミングをしてきたけれども、
それは他人が認めてくれるという期待があってこそだった。
しかし改めて思い返してみれば自分が期待するほど他人が称賛してくれることはまずありえない。
凡人たる自分が努力しても苦労が報われることは少ないと知ってしまった途端、
承認欲求を原動力に行動することが急にバカバカしくなってしまった。

自分はこれだけ頑張ればこれだけ評価してくれるだろうと他人に期待するけれども、
実際にはどんなコミュニティにもその人が思い描く理想との相対でしか他人を評価できない人がいて、
その人に悪意があるかはさておきそういう減点法的な評価を真に受けると、
承認を求めてもどこどこまでも認められずに苦しい思いをする。
であれば、一度立ち返って自分の欲望に忠実に自分のためだけに行動すればよいのではないか。
少なくとも人生そのほうが充実させられるのではないかという話でした。

ところが、さらに前の記事で自分は意欲というのは結局承認欲求なのではないかと結んでいます。
それは、他人と一緒にする趣味は長続きしやすいけれども、
自分ひとりで思いついた趣味はなかなか長続きしないという経験則による考えです
#6338『意欲の正体』2021年04月24日)。

こうなると、自分は自分で自分の意欲を否定していることになってしまいます。
承認欲求を否定するということは、ある社会において意欲的に活動することの否定をも意味する。
自分の欲望に忠実に生きようというのは聞こえがいいけれども、
要するにそれは自堕落に、非生産的に人生を消化していくことと等価なのではないかと。

これを自己責任論に基づいて考えると、
何をやっても評価しようとしない意地悪な存在はさておくとして、
他人全員が常にそうとは考えられない。
意地悪な存在以外の他人からの承認を得ることそのものは有意義なのかもしれません。
そこでも割に合わないと考えてしまうようなときは、他人に問題があるというよりも、
「他人からの自分に対する期待」を自分が計り間違えたことに原因があるのではないでしょうか。

「紙飛行機を作って!」と折り紙を持ってやってきた小さな子どもに対して、
折り鶴を作って渡したとしたら、それがいかに大作であっても喜ばれないかもしれません。
なぜなら子どもが本当に欲しかったのは紙飛行機だからです。
相手のニーズを正確に掴んでいれば、
折り鶴よりもずっと簡単な紙飛行機で相手を喜ばせることができ、ひいては承認を得られます。
しかし、他人というのはいちいち声に挙げて自分に期待することを話したりしません。
あまつさえ、他人自身も本人が本当に欲しいものが何なのか知らない場合もあります。
そこは行間を読んで、自分がニーズをつかんでいく必要があります。
たぶんこういうスキルは、接客や介護、医療などの対人仕事や、
イノベーションを起こすような最先端の仕事で求められるスキルなのではないかと。
かのスティーブ・ジョブズもこう言っています。

A lot of times, people don’t know what they want until you it to them.
(多くの場合、人は形にして見せてもらうまで自分が何が欲しいのか分からないものだ)
――1988年、ブルームバーグ・ビジネスウィーク

社会は何を求めていて、自分はその中のうち何ならできるのか。
そういう基準で考えると、自分にとってweb制作は必ずしも間違いではないような気がします。
承認欲求を原動力にするのは費用対効果が悪いと考えてやらないことを正当化するのは、
社会や他者から求められてないと決めつけてしまえば
意欲がなくてそれをやらない原因を他人になすりつけられるというだけの話です。
たしかに他人から求められていないとやる気は出ません。
しかしそれも、他人のニーズを計ろうとする前向きな気持ちがなければこそだと思います。
結局のところ、他人がどうこうというより「まず自分がやるしかない」という話です。

ちなみに勘違いされてほしくないのですが、昨今ブログで展開している
「他人は冷たいのは当たり前」「他人と価値観が違うのは当たり前」
というような考え方は、あくまでも基本であって常にそうであるというわけではないということです。
間違っても「他人は信用に値しない」などと言いたいわけではありません。
これは言い方を換えれば「他人が優しいのは当たり前ではない」
「他人と価値観が同じなのは当たり前ではない」という意味になります。
つまり、他人というものを基本的には優しいものだ、価値観が同じものだと期待してしまうと、
それが裏切られたときに他人に対して失望する一方、
期待通りだったときは「当たり前」なので他人に対して感謝の気持ちも沸き起こりません。
それは先日も書いた減点法的な人の考え方であって、
そういう考え方は周囲や自分を幸福にはしません。
だから、そういう考え方はもうやめて一歩前に進みたいという意味で、
他人が冷たかったり、あるいは価値観を異にするのは当然だと主張しているわけです。

承認欲求を満たしたいからする行動は、他人が認めてくれることを前提としがちです。
認めてくれることが当たり前で、そうでない場合がイレギュラーだという価値観です。
それも、ともすれば責任転嫁や減点法評価に陥る原因になりかねません。
何らかの物事に取り組むときは、
少なからず最初は自分がやりたいからという主体的な意欲があったはずです。
でもそれをSNSなどを通じて他人と共有すると、
いつの間にか動機が「他人のため」になって主体的な意欲がおろそかになってしまう。
自分にとってwebプログラミングはまさにそのパターンなのではないかと思いました。
だからこそ、意欲の原点である主体的意欲に立ち返ろうと考えたわけです。

まとめると、他人のために行動するならまずそのニーズを把握するところから始める。
しかしそもそもの行動原理として主体的な意欲があることを忘れないようにする。
つまり、意欲の原動力は承認欲求であると認めつつ、しかし意欲が出ないことは他人のせいにしない。
この辺を気を付けていきたいところです。

たとえばYouTubeで、自分はAが好きでAに関する配信を始めてフォロワーが増えた。
ところがある日Aに飽きてしまいBに関心が向くようになった。
しかし同時期にCが流行っておりCを配信するとフォロワーが増えやすいと知った。
そこで、自分が好きでもないのにCの配信をするような人は愚の骨頂だと自分は思います。
せめて主体的に楽しめるBか、あるいはニーズのあるAに関することをするべきです。
配信界隈やSNSは、フォロワー数という数字の奴隷になっている人が少なくありません。
その数字にまったく意味がないとは言いませんが、
それに囚われて主体的意欲を失うくらいだったら気にしない方がいくらか健全なのかなと。

この辺は昨今のネット社会特有の悩みなのかもしれません。
良くも悪くも意欲に振り回されやすいのは、
他者の距離が近いようで遠いネットがあってこそなのかなと。
この社会で自分の居場所を見つけ存分に意欲を発揮することは、
思っていたよりも難しい課題なのかもしれないと改めて思いました。

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