#6400

差別の話


独り言

社会は、実は平等とは真逆の価値観をさも当たり前のように肯定している。
だから僕は、この社会の恩恵を受けておいてなお、平等を謳う人は偽善者だと思っている。
たとえばお金。資本主義は、経済活動に成功した人には裕福な暮らしを提供するが、
それができなかった人には最低限度の生活費しか与えられない。
たとえば恋愛。自由恋愛および恋愛結婚の考え方は、
異性にモテないブサイクやバカをある程度自然淘汰するようにシステムができあがっている。
たとえば学歴。学歴のほとんどは遺伝や家庭環境によって決まると言われている。
にもかかわらず、社会はなぜか高学歴はできる人間だという固定観念を捨て去ろうとしない。

そして貧乏人、独身、低学歴という被差別階級に対して社会はこう投げかける。
「それは、君が努力不足であることが悪い」

一方で社会は、性的少数者や障害者といった極端なマイノリティーは差別するなと言う。
優生思想はいけないことで、たとえばダウン症の人工中絶は倫理にもとると人は言う。
これが矛盾でなくて何なのだろうか。自由恋愛が優生思想でなかったらいったい何なのだろうか。
どこかに人として尊重される集団とそれ以外の間にボーダーラインが存在するのだとしたら、
それは誰がどういう権限で線を引いたのだろうか?

誰かが幸せを追求できないことを社会の課題とするならば、
ごく少数のマイノリティーに手を貸すよりも、
圧倒的大多数の被差別階級を先に救う方が功利主義的な観点から言っても合理的ではないだろうか。
にもかかわらず、マイノリティーを祭り上げてそれに注目しようとする昨今の流れは、
誰かの意図的な作為を感じずにはいられない。

僕は別にそれらマイノリティーを積極的に差別したいとは思わないけれども、
マイノリティーの中には不当な差別を受けている人も特権階級に甘んじているクズも存在すると思う。
その前者を救いたいという正義感はわからなくもないが、
属性でひとくくりにして救おうとする以上は後者のようなクズにも手を差し伸べることになる。
その後者に対して社会的支援を送ることは不合理だと思う。
社会福祉とは本来一人一人に対してきめ細かにパーソナライズされたものであるべきで、
思想家や政治家などの声の大きい人が不用意に抽象的な言説を叫ぶべきではないと思う。
だから僕は、「障害者を救いたい」などと大それたことを平然と言ってしまうような人は、
劣等感のかたまりか、あるいはただの偽善者だと思ってしまう。
例の17年前のクラスメイトなどがまさにそういう思想の持ち主だった。
彼らは障害者を救うことそのものが目的なのではない。
そう言うことで、正義感に溢れる自分に陶酔することが目的なのである。

思うに、この20年くらいで社会がいまのように変容してしまったのは、
個々人の人生の目的が変化してきたからではないかと思っている。
つまり、あたかも人生の目的が「自分が自分らしく生きること=社会の束縛から解放されること」
になっているのではないか、と。
そしてその思想が現代人の考え方をある意味で歪ませているのではないか。
だから男らしい女を奇異な目で見るなとヒステリックにわめく女性や、
小学校にして不登校になったことをドヤ顔で顔出し配信する小学生や、
映画やゲームといったカルチャーの主人公を黒人にしろと叫ぶ人が登場してくる。
それはまるで、既存文化に抵抗すれば自由になれるとでも言っているかのようだ。
そしてそれは自由になるということがすなわち幸せになるという前提を含んでいる。
しかし、果たしてそうなのだろうか?

僕は、個人の幸せというのは「まだ満たされていない欲望」だと思っている。
宝くじが当たれば幸せになれると考えているのは貧乏な庶民ゆえであって、
食うに困らない上級国民はそうは思っていないだろう。それは恋愛も学歴も同じことが言える。
だから、その意味では被差別階級の方が幸せになれる余地がたくさんあることになる。
でも、集団の幸せが同じように考えられるかというと、そうともかぎらない。
「幸せのイス」は必ずしも人数分用意されているとはかぎらないからだ。
たとえば、全員がお金持ちになったらお金はその価値を失ってしまう。
恋愛も、世の中の全員が当たり前のように美男美女しかいなかったら優越感は味わえないだろう。
つまり誰かの幸せの足下には、必ず犠牲になっている人がいる。
昨今の多様性を重んじる自由主義的な考え方は、
自分たちが認められないことを社会に原因を求める責任転嫁的な主張が含まれている気がする。
「自分たちの座るイスが無いならクレームを入れて社会に作らせよう」ということである。
しかし、イスが人数分量産されるようになったらそれは「幸せのイス」になり得ないだろう。
彼らの主張が通ればすべての差別が解消されるとは、とても思えない。

僕たちは、本質的には他人を蹴落とすことによって幸せを感じる生きものだ。
だからこそ、「全員が幸せになる」という目標は本能的にも矛盾する。
「みんな違ってみんな良い」は単なる絵空事に過ぎないのである。

しかしそれでも、人類はその矛盾を乗り越えるべく舵を切り始めてしまった。
もう後戻りはできない。
世の中はこれからどうなっていくのだろうか。少し楽しみでもあり、不安でもある。

0

コメントを残す