#6453

続・好奇心の話


独り言

「これから好きになる何かは、常にすでに好きな何かを連想する何かである」

好奇心が爆発した今年、さまざまなモノに興味を抱く自分を客観視したとき、
ふとそんな仮説を思いついた。
考えてみれば、ここ十年で新しく好きになった何かはずっと前に触れたことのある何かだったり、
あるいはそれに関連する何かだったりした。
そのように好奇心というものは、子ども時代から連綿と続いているように思われた。

これから興味を抱くものが既知の何かに連想した何かであるとき、
その既知の何かもそれより古い別の既知の何かに連想して興味を持ったはずだ。
これをたどっていけば、自分にとっての好奇心の始祖とも言えるものにたどり着けるかもしれない。
しかしそれは、昔になるほど記憶があいまいになることを考えると、
いまからさかのぼって推定するのは困難を極める。
ただ、おそらくそれは「幼少期に親に与えられたもの」の範疇に収まるのではないだろうか。
それは理性的な何かというより、もっと本能的な何かかもしれない。

逆に言えば、連綿と続いている何かがひとつでも欠けた世界線は、
それに続く興味の系統樹は一切作られないということになる。
つまり、ひとつの何かから非常に多くの何かへと興味の線路がつながっているとき、
そのひとつはその人の人生に多大な影響を与えていると言える。
俗に言う「運命の出会い」というものを、誰しも少なからず持っているのではないだろうか。

2021年、Minecraftに始まった矢継ぎ早な一連のマイブームは、
十個近い文化を経て「いきもの」というひとつの駅に行き着いた。
僕はいきものといえばメジャーな哺乳類も当然好きだが、特に珍妙ないきものが好きである。
趣味としてのゲームが廃れつつある中、いきものへの興味は幼少期からずっと静かに続いてきた。
細菌が好きだというと変な奴だと思われるかもしれないが、
約27億年前に大繁殖してこの世界の基礎を形作ったといわれるシアノバクテリアが、
いまもウスバゼニゴケなどに住処をもらってけなげに生きているという話はとても愛おしい。
また、アリノスダマという植物に巣を提供してもらうアリ、
そのアリに守ってもらうアブラムシ、そのアブラムシなしでは生きられないブフネラなど、
人間が思っていた以上に自然界はお互いに影響を与えながら生き続けてきた歴史があるらしい。
僕はそんな奇特ないきものの生態にそこはかとなく愛らしさを感じる。
それだけでなく、古生物も深海生物も原生生物も好きだ。
生物学系のWikipedia記事を読み始めて十年以上経ったが、いまだに一日中読んでいられる。
さて、この好奇心の理性的なルーツはどこにあるのだろうかと考えたとき、
ふと思い浮かんだ景色があった。

いまから約20年前、あるショッピングモールのゲーム売り場にある店頭体験版で、
切り株の上に置いてある黄色の20ペレットに驚いた日のことをいまも鮮明に覚えている。
これが僕にとっての、いまにつながる好奇心の原風景である。
2001年に発売された『ピクミン』というゲームは、身長3cmの世界で自然を探索しながら、
アリのようにモノを運ぶ習性を持つ奇妙な生物を指揮し、
限られた時間で目標物の回収を目指す3Dストラテジーゲームである。
一本道のプラットフォームゲームと違って攻略の道筋は無数の組み合わせがある上に、
計画を実行するためには正確な操作やランダム要素に対する対応力も求められる。
噛めば噛むほど味が出てくる、究極に面白いゲームだと僕はいまでも信じて疑わない。
それは、幼少期から20年前へ至るゲーム好きの自分が行き着いたひとつの到達点であり、
また20年前から現在に至るまでの自分にとってのゲーム文化の原点でもあった。

そして、ピクミンは究極に面白いゲームであるだけでなくその世界観も最高に面白い。
ピクミンやアメノツユクサという架空の植物を中心とした独特な生態系は、
食物連鎖のリアルが持つエグみをキャッチーに描くことで親しみやすく昇華していると同時に、
「運ぶ、増える、そして食べられる」というゲームシステムの根幹をみごとに表現している。
また、通常倒されるだけの運命にある敵キャラクターをこの世界では原生生物と呼び、
エンディングを迎えるとそれら1種ずつを主役にした紹介ムービーが始まる。
奇妙な姿かたちの生物と、それに添えられた意外性のあるトリビアは僕の好奇心を刺激した。
続く第二作では多様化が一気に進み、さらに奇妙な生物も大勢登場した。
それらの生物に共通する「不気味でどこかかわいらしい」雰囲気は、僕の価値観を一気に塗り替えた。
その価値観はピクミンの8年後に出会ったエレクトロニカという音楽や、
20年後に出会った多肉植物にも通じるところがあるように思う。

ネット活動を始めて少し経ってから、僕はピクミンをライフラークの中心に据えるようになる。
ピクミンが無かったら一体どれだけの出会いが失われていただろうと改めて思う。
もはやそれは、僕が僕でなくなってしまうことと同義と言えるかもしれない。
ピクミン活動を続けていなかったらこのブログの存続も危うかっただろうし、
ブログ以外のサイト運営に関してはとっくの前にやめてしまっていただろう。
学卒直後に『ピクミン3』が発売されなかったら、無事に就職できていたかどうかも怪しい。
そして界隈の多くの方々に支えられたピクチャレ大会というサイトが
あんなに広く認められる存在にならなかったら、今頃上京もしていない。
ピクミンという概念は、僕という一人の人生を大きく変えた。それは揺るぎない事実である。
そしてそれはいきものへの興味という形で20年経ったいまも息づいている。
だから今年のマイブームがここに終着したとき、改めて思った。
ここまでいろいろあったけれど、僕はなんだかんだでピクミンが大好きなんだと。

人生は果てしない。
寄る辺なく広大な道を歩いていると、ふとこの旅に意味はあるのかと不安になる。
人生そのものは無色透明であり、それ自体に意味はないと思う。
それに意味を与えてくれる存在があるとしたら、それはあざやかに色づいているこの世界であり、
その世界を理解したいという好奇心なのではないだろうか。
着色された世界を無色透明の自分が受け入れることで、ようやく人生に意味を見出せるようになる。
そして一人の人生の好奇心が連綿と続いているように、
世界もまた、蜘蛛の巣のようにつながりあってできているのだろう。
それはちょうど、生物が40億年の時間をかけてお互いに影響しあいながら多様化していったように。
そして、それらは「わからない」からこそロマンを感じるのだろう。
地下生物や深海生物、微生物や古細菌、古生物やアメボウズがそうであるように。

まだ知らない世界の一端には既存の好きな何かに関連した、きっと好きになれる何かが必ずある。
無知であることを楽しもう。人生の活路はきっとそこにある。

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