#6468

歩き続けるということ


独り言

なぜ、20代の僕はあんなにも自己肯定感が低く、憂鬱で自虐的だったのだろう。
「自分のやっていることは大したことがない」
という確信はどこから生まれるのだろう。当時はその疑問に答えることはできなかったが、
生活を整え、他者との距離感を慎重に見極めるようになった昨今、
ようやくそのネガティブ・シンキングの原因をつかみつつある。
それは一言で言えば巨大な劣等感であったと思う。
すなわち、「いまの自分」ではなく、理想の自分や他人を価値基準の中心に据えて、
そこから相対的に「いまの自分」を見つめていたために、それがひどく矮小なものに思えたのだ。

この劣等感は、他人との関係においてのみ生まれるものではないからやっかいだ。
自分一人でいるときでさえも、理想との相対によって「自分」は貶められる。
そして、そのある種の満たされなさが行動のエネルギーとなっていった。
そこから生み出されたものもある以上は、理想との相対が必ずしも悪いものだとは言い切れない。
100点満点からの減点法で物事を考えることは、
言い換えればゴールがきわめてハッキリしているということでもある。
人は満たされていないからこそ行動することができるのである。

満たされていないことを行動のエネルギーに変換することそのものは別にいいと思う。
問題は、価値基準になる他人や理想の自分である。
それは、果たして本当に価値基準として妥当なものなのだろうか?
たとえば、ものすごい偉人や有名人を基準にして、
平々凡々たる自分は大したことがないと嘆くのは誰が見てもおかしいと思うだろう。
もちろん、自分がとっくにできることをできない人を価値基準にするのも変な話だ。
それでマウントを取ったところで行動原理にはならない。
つまり、行動原理としての価値基準と「いまの自分」の距離感は何でも良いというものではなく、
自分には自分なりの適正値があるのではないか。

その適正値がどの程度のものなのか、長年ゲームをやってきた僕には概ね検討がつく。
アナウンサーの吉田尚紀が『没頭力』でそれを「4%」と表現していたのは正鵠を得ていると思う。
ゲームでもっとも夢中になれるときというのはどういうときか。
それは「できそうだけどできない、でももう少しだけ頑張ればきっとできる」
と思えるほど目標がすぐそこに迫っているときだ。
簡単にできるのであれば、それはすぐに満たされてしまい意味を成さない。
かといって、いくらやってもできないことをやり続けるのも無理がある。
「できそうだけど(いまは)できない」という絶妙な塩梅が自発的行動を生み出すのである。
自分のスキルが100%だとしたら、目標は104%くらいがちょうどよい。

それに薄々気が付いていながら、理想を高く高く求めてしまうのはなぜだろうか。
それはおそらく、行動できないのを理想のせいにしたいからだろう。
理想が高ければ、いまはできなくても仕方がないという言い訳が成り立つ。
自分は理想の価値基準に比べて矮小だ、クズだゴミだと言い放っておくことによって、
行動しない自分を説明しようとしているわけである。
つまり、ネガティブ・シンキングは行動しないことに後付けされた言い訳にすぎない。
それでは人生を真剣に生きていることにはならない。

高い理想を思い描くことは気持ちがいい。
一発逆転サヨナラホームランを打ちたいのは人が持つ本能であると思う。
だからたった104%の成長幅にもどかしさを覚え、遅い歩みに耐えられなくなる。
しかし、それでがむしゃらに走り出すことができる人はほんの一握りの天才だし、
僕の見立てでは104%の成長幅に耐え続けることができる人も世の中には多くないと思っている。
ほとんどの人は歩くことをやめてしまうだろう。それが合理的なのだから仕方がない。

僕は20代という貴重な十年間をドブに捨てて、ようやくその愚かさに気が付いた。
達成なんてできるはずもない理想こそが、自分の歩みを止めている原因なのだと。
だからいま、その理想的価値基準を104%の価値基準に必死に置き換えようとしている。
まだまだ本能が邪魔をしてくるが、
ようやく少しずつ現実的な価値基準を持てるようになった気がする。

それは、20代の十年間に迷走している傍らで、
「やめたくないからというだけで続けている」と言いながらもなんとか続けてきた、
このブログによる功績も大きいのではないかと思っている。
まったく何も成長しない十年間だったら、きっとどこかで人生を放棄していただろう。
ブログという、少しでも一日に意味をもたらすものがあったからこそ生きてこられた。
ブログによる歩みは104%どころではない。
総記事数に対する1本の割合で考えれば、100.015%くらいの小さな歩みである。
もはや小さすぎて成長している実感はない。しかし、積み上げている証拠は確実に存在する。
ほんのわずかでもいいから、前に進むこと。
そこにこそ生きている実感というものが含まれているのではないかと改めて思う。

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