#6575

詐欺師の話


独り言

今年の春、ある高校時代のクラスメイト(以下、A)から突如連絡が入った。
「あるクラスメイト(以下、B)についてのお知らせがあるんだけど、聞きたいか?」
僕はその回りくどい言い方である程度内容を察したので、
自慢話なら聞かないし、自分に対する個人的なメッセージなら聞くという旨の返事をした。
するとAは「自分からは言わないから、聞きたかったらクラスのLINEグループで聞いて」と言った。
僕はそのやはり回りくどい対応に苛立ちを隠せなかった。
言わない方がお互いのためになると分かっているのならそもそもその話を切り出すべきではないし、
話があることだけをほのめかして詳細は他のメンバーに聞けということは、
要するに自分ではない誰かに責任を押しつけたいということではないか。

しかも、この時点で僕はそのLINEグループに入っていない。
グループを作ったのは僕自身らしいが、
ずっと誰も発言せず開店休業状態だったので2016年の機種変更後に脱退していた。
LINEグループはメンバーが抜けるとタイムラインに表示されるので、このことはAも当然知っていたはずだ。
それで不服であることを伝えると、「わかった、もうお前には二度と連絡はしない」と返ってきた。
最初からそれが言いたくて連絡してきたのではないか、と思うくらい納得のいかないやりとりだった。
僕に対して何らかの不満があったのかもしれないが、
何しろ数ヶ月ぶりの連絡であるため直近の行動を思い返しても思い当たる節がない。
昔の僕の不始末を絶縁の理由にしたいのだとしても、Bをダシに使う合理的な理由が見当たらない。
この時点ではAの意図がよくわからなかった。

僕にとってAは、それ以外の高校同窓生メンバーとのパイプのような存在だった。
その彼と確執を生むことは、高校時代のクラスメイト全員と縁が切れることと等しい。
なぜならA以外の人とは、彼を通して参加する飲み会以外連絡を取り合うことが皆無だからだ。
だから僕は、今回のことでAに対して理不尽な思いは感じているけれども、
それを表沙汰にすることで他の高校同窓生と縁が切れてしまうのは良くないと考えた。
そのためには、こちらは悪くないという確信があってもなお謝ることもやむを得ないと思った。
なにしろこちらが譲歩しなければ状況が一向に好転しそうにないからだ。

そこで、深く内省してこのことに至ったそもそもの原因は何なのかを考えた。
その結果、先入観や偏見などの認知バイアスと価値観の違いが主な原因なのではないか、
というところに行き着いた(#6325『価値観の話』2021年04月11日)。
認知バイアスはいわば脳のクセなので短期的にはどうしようもないとしても、
価値観の違いについては徹底して相手を理解しようとする姿勢によって止揚できると考えた。
それはAのような秀才なら当然できるはずなので、あとは僕がそれを実践していないのが問題だと思った。
そこで僕は相互理解を図るためにAに話し合いを申し込んだ。
彼がどういう意図で僕にあんなことを言ったのかを知りたかったし、僕の気持ちを知って欲しかった。
なにより、もしも僕自身に反省の余地があるならそれを明確にしたかった。
他人に対してただ憤るだけでは、その感情自体は自分になんのプラスにもならないからだ。

それで、こんなご時世なので後日対面ではなくzoomで話し合うことになった。
僕は彼の口から一言「ごめんなさい」と言われることを期待していた。
しかし、彼はその自尊心の高さからかどうしてもそれを言いたくないらしかった。
その一言を引き出すためにこちらから真っ先に謝ったのに、彼はかたくなにそれを言わない。
さらにこちらの見解はことごとく否定し、受け止めようとしない。
挙げ句の果てに知能検査を受けてみたらどうかなどと言い出す。人を何だと思っているのだろうか。

僕は激昂したい気持ちを抑えて、「いままでずっとそうやって見下していたんだろう?」と彼に投げかけた。
僕はAの高慢な態度によって自分が静かに傷つき続けてきたことを主張した。
実際にこの17年間、同じ穴の狢だった高校時代はともかく、彼が大学デビューを果たしてからは
彼は「努力できる自分はカッコいい=努力できないやつは自分以下だ」という固定観念のもと、
明らかに僕や他の同窓生を見下すような態度を取っていたし、そこには明確な上下関係が存在した。
しかし彼はそれも否定する。自分は凡人だなどとあからさまに思ってもいないであろうことを言う。
要するに、彼の世界観は「自分は正しい」という大前提に支えられて成り立っているのだろう。
大前提を否定したら世界観が瓦解するので、どんなに不格好でもそれを否定するわけにはいかない。
これまでの人間関係でもたまに出くわした、
「絶対に謝ることのできない人」に彼も当てはまるような気がする。

僕が彼に否定され傷付き続けてきた中で、特に鮮烈に記憶に残っている言葉がある。
ある日、彼は不眠症と人間関係に悩む僕に対して「生きづらそうだね」と言った。
それは人生を真っ向から否定するきわめて鋭い言葉であり、
本当に生きづらい人にとっては「早く死ね」と言われているのと同等である。
少なくとも、どんなに譲歩したとしても対等な関係で出るセリフではない。
死にたそうにしている人に「死ねばいいのに」と言ってその人が本当に死んだら自殺幇助になるのと同じで、
仮に本当に生きづらそうに見えたとしても、その一言だけは言ってはいけないのは当然の倫理だと思う。
他人を慮ることができる人なら、たとえ子どもでも言わないだろう。
Aは自分の発言で相手がどう思うのかを予測して言葉を選ぶための思考回路が欠落しているのかもしれない。
こういうエピソードが一度だけではなく何度もあったので、
少なくともAは僕を見下しているのだろうと考えるようになった。
そして、自分はAの言う通り劣っている人間なのかもしれないという可能性を棄却できるようになるまでに
随分と長い年月と労力を要した。なぜなら少し前までの僕は、彼は正しいことを言う人だと信頼していたからだ。
それは他でもない彼自身が発言に絶対の自信を見せるその態度によって支えられていた。
彼は詐欺師の才能は間違いなくあると思う。

思うに、他人の行為の結果生じた誰かの感情を、行為者本人である他人が否定することはできるのだろうか?
自身の行為(発言)に対して弁解や撤回はできるかもしれないが、
行為によって生じた他人の感情に対して行為者が関与する余地はないのではないだろうか。
これはいじめの現場でも同じことが言える。
ある人が別の人の身体的あるいは精神的特徴をからかって中傷したとする。
仮にその行為が客観的に見て道徳にもとるという前提条件を満たしていたとして、
それを言われた人が笑って済ませれば単なる笑い話で済ませてもいいのかもしれない。
しかし、言われた人が深く傷ついたとしたら立派ないじめである。
行為者は、傷ついた相手を見て「そんなつもりじゃなかった」と自分の行為を否定することはできる。
しかし、「いや、君は傷ついてなんていないよ」なんて言える権利はあるのだろうか。
そんなことがまかり通ったら世の中のあらゆるいじめは正当化されてしまう。

僕とAの価値観の違いは、個人の感情の主導権がどこにあるのかというところに集約されると思う。
僕は、感情はその人自身によって操縦すべきもので、他人はコントロールできないと考える。
おいしいものを食べたとしても、虐待されたとしても、嬉しく思ったり悲しく思ったりするのは自分が決めることだ。
Aはおそらくそう思っていない。人の感情は環境によって左右すると考えているのではないか。
だからその人にとっての環境すなわち他人はその人の感情に干渉できる。
優しく接すれば穏やかな気持ちになり、厳しく接すれば憤るものだと思っている。
もちろんこれは邪推でしかないが、いずれにしろこの辺の考え方で両者間に溝が生まれている気がする。

話し合いというのは、同じステージに立たないと始まらない。
お互いの価値観が違っている場合、
自分が間違っている可能性を認めなかったら永遠に同じステージに立つことはない。
しかし彼は、自分の愛する高台から一向に降りようとする気がないのだ。
そこから降りたら自分の自尊心を否定することになるからだろう。
その態度は、まるで漫画の主人公のように自分を特別な存在と思っているのではないかと思わされた。
そういう人のことを、人は傲慢と言うのではないだろうか。

トラブルの発端になった「Bについてのお知らせ」については、
AはかたくなにBが誰なのかを言おうとしないが、どうやらBが結婚したということらしい。
「ふつうの大人」であれば、結婚報告は未婚者に対して配慮が必要なことは容易に想像できる。
既婚者だけに送るならともかく、そうでない人も入り交じる集団に対して報告するのであれば、
一括報告を避け一人ずつに報告するのは社会マナーだし、ましてや人伝に教えるなんていうのはあり得ない。
そのことに思い至らず、ただ言われるがままに伝言板になったAはやはり相当に浅はかであると思う。
結婚をきっかけにして縁が切れる人間関係は多い。それゆえに特段の配慮が必要なのは確かだ。
少なくとも信頼関係の下地があってこそ伝えられるべき情報だと思う。
百歩譲ってBに悪意がなかったとして、Aがなぜこの状況でそれを伝えようとしたのか理解しがたい。
しかも、結婚したという事実まで伝えておいてBは誰なのか絶対に言わないというのはますます意味不明である。
それはAにしろBにしろ僕を信頼していないことを端的に表しているし、
信頼できないならなぜこの事実を伝えようとしたのか。まったくもって筋が通っていない。
だからこそ、僕はAに対して憤慨しているのである。ただただ僕を見下し、煽っているとしか思えないからだ。

むろん、それら諸々をすべて分かった上で「おめでとう」の一言を返すのが一端の大人というものである。
こちらが嫌な気持ちになるのはこちらの問題であって、相手には関係ないからだ。
見下してきているかもしれないというのは十分承知してなお、立場上必要なら相手を称賛する。
それくらいの余裕が無かったら、とてもではないがこの競争社会で生き残ってはいけない。
それができなかった時点で、僕自身もまだ未熟で不寛容な人間であることは否定できない。
しかし、だからといって僕だけが謝れば済む話でもないのは明らかだ。
それをかたくなに認めようとしないのなら、こちらもこうしてお気持ち表明を書かざるを得ない。

かつては、連日バカ騒ぎして遊んでいた仲間だった。
高校時代の夢はいまだに見る。あの三年間の思い出は十年以上経っても色褪せない。
それはそれで大事なことだと思っている。当時の関係がウソだったとは言いたくない。
要するに、人は変わってしまうものなのだ。
その過程でわかり合えなくなることもあるし、その逆だってあり得る。
これだけ価値観の多様化が進む現代社会において、それはむしろ当然の成り行きであるとも言える。
だから今回のことも、17年という経過した時間を考えれば至極当然の結果なのだろう。
むしろ去年まで当然のように縁が続いていたことが奇跡だったのかもしれない。

でも、だからといって自分の価値観ばかりを死守していたら孤独になる一方だ。
僕の予想では、不寛容で言語能力に乏しいAはこれから年老いるごとに孤独になっていくと思う。
この社会で尊重されたいなら人はどこかで他人の価値観を許し、寛容にならなければならない。
そして相手の気持ちを察して言葉を選ぶ能力は社会のつながりを作る上で必須である。
人と人の関係は単純な利害ではないし、ましてマウントの取り合いではない。

その意味で、僕とAの関係は非常にいびつだったと言わざるを得ない。
僕という存在は、Aにとって承認欲求を満たすための入力装置でしかなかったからである。
Aの思想が、仕事が、趣味が、努力が、いかに素晴らしいかということを17年間聞かされ続けてきた。
常に彼が上座に座っていて、僕はそれに賞賛の拍手を送る係だった。
それはもちろん、Aだけに帰する問題ではなく自分のコミュニケーション能力にも多分に原因がある。
彼を傲慢にしてしまったのは卑屈な態度で接してきた僕自身にも責任があるかもしれない。
しかしともあれ、結局のところそういうことの積み重ねで上下関係が確立し、
そこから生まれた劣等感に僕が先に耐えられなくなり、今回のトラブルでトドメをさされてしまった。

これによって関係に終止符を打つことになったのは僕にとっても良かったと思っている。
2021年がいままでになく充実していたと自信を持って言えるのはAと絶縁したおかげとさえ言える。
A以外の高校同窓生との縁が切れてしまったのは残念だが、彼と絶縁するメリットを考えると致し方ない。
彼が関与することは僕の人生になんのプラスにもならないばかりか、前向きに生きることを阻害させた。
彼との話の中で僕は常に二番手であり、主体的に考えることを許されなかったからだ。
しかしこれからは、そういったしがらみを意識せずに自由に生きていくことができる。
実際に春以降は憑きものが取れたようにストレスフリーな生活を送ることができている。
Aの更生は年齢的にもう難しいと思っているので、関係の修復は特に望んでいない。
「他人に期待しない」というのは、この件を含め昨今の反省で得た大きな教訓である。
いまごろ彼は僕の代わりにサンドバッグになるような格下の人間を探していることだろう。
犠牲者は増え続けるだろうが、それは僕の関与できるところではない。
これからの僕がすべきなのは、記憶に残る彼の言動の汚いところを洗い出して反面教師にすることだ。
それは17年間マウントを取られ続けた僕が持つ正当な報復の権利だと思う。
それをしなかったら、僕もいずれ歳を重ねたら誰かにとってAのような存在にならないとも言い切れない。

人格は、周囲の人によって作られるものだと思う。だから人間関係というのは人生を形作る基礎になりうる。
人生にマイナスしかもたらさない人間との関係は、
ときには思い切って切ることもより良い人生を送るために大切な所作である。
いままでに何度もそのことに気づき直して、そのたびにそのことをブログの片隅に書いてきたが、
それはすべて他でもないAとの関係をいつか清算したいという思惑があってのことだった。
彼とこのまま付き合い続けていいのだろうかという一抹の不安は潜在的にずっと存在し続けていた。
長い長い伏線を経てようやく解消したことになるわけだ。

人間関係は増やすことだけがより良いと考えがちだが、
実は減らすことで生活の質が上がることもあるということは処世術のひとつとしてぜひ覚えておきたい。

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