#6600

ルールの話


独り言

2021年以降の僕は、イライラに悩まされることがきわめて少なくなった。
嫌なことが起きなくなったわけではない。
強いて言えば上京して人間関係を整理したことが功を奏したとは思っているが、
それでも社会で生活していると嫌な人という人種は避けがたく出会ってしまう。
では、なぜ僕はストレスフリーな生活を実現できているのだろうか。
それを考えるためには、まずなぜ以前の僕はよくイライラしていたのだろうか、
というところから整理しなければならない。

イライラする原因は多岐にわたるものであり、とてもひとつに絞り込むことはできない。
しかし、間違いなくその一つであろう原因について考えてみると、
上京以前と上京以後の自分の気持ちの変化があるように思われる。
その原因とは、一言で言えば自己欺瞞である。
上京以前の僕はよく「うまくいっている人」に対して嫌悪感を隠せなかった。
本来は自分がやりたかったことを、
先取りして実現している人がいると抗いがたく嫌な気持ちになったものだった。
その原因が掴めていなかったころは、随分と周囲に迷惑をかけたように思う。
それはいまでも申し訳ないと思っている。

「うまくいっている人」を見てなぜ嫌な気持ちになるのだろうか。
それは、相対的に自分がうまくいっていないことを露わにされてしまうからだ。
自分も本当はそれがしたいのに、何かと言い訳をして保留し続けてきた。
他人がそれを実現しているということは、
その態度が間違いだったということを真正面から突きつけられることになる。
つまり自己欺瞞とは、自分のやっていたことが間違いだったということが
客観的に明るみになることへの嫌悪である。
「うまくいっている人」そのものは何ら関係なく、個人的な気持ちの問題である。

人間誰しも否定されれば嫌な気持ちになる。イライラのメカニズムはシンプルだ。
クルマを運転していてわずかなスピードオーバーで違反切符を切られれば、
誰だって嫌な気持ちになるだろう。
そしてそれは、ルールを遵守するという約束で交付された運転免許を持つ以上、
ルールを破っているという客観的事実のもとに言い訳をする余地は存在しない。
違反切符を切られれば、どんなに嫌な気持ちになっても従うしかない。
それが社会というものである。

では、イライラしたくなければどうすればいいのだろうか。
これもバカバカしいくらいシンプルな話で、要するにルールを守ればよい。
もしも交通ルールを完璧に守っているのに違反切符を切られそうになったら、
それはこちらの正しさを明らかにするために抵抗してもよい。
この社会では、ルールを守っているかぎりは堂々としていいのだ。

ここで言うルールとは明文化されている憲法や法律だけではない。
暗黙の了解である道徳や社会常識、個人の価値観も対象になりうる。
個人がそれをルールとして認識すれば、それはその人にとってのルールとして通用する。
ルールである以上は、それを破れば嫌な気持ちになることは避けられない。
それは何も罰則があるからではない。
人間、自分が正しいと思わないことをすることは気持ちが悪いものだ。

この問題の本質は、ルールを破れば嫌な気持ちになるという生理的な段階の話ではなく、
誰が何をルールとして認識しているかという価値観の問題だと思う。
誰かにとっては妥当なルールでも、誰かにとっては守るのが困難かもしれない。
他人がそのルールを尊重しているからと無理に自分のルールに書き足したところで、
それを遵守できなければ自己欺瞞に陥るだけだ。
「うまくいっている人」がうまくいっているからといって、
必ずしも自分もそれをするべきとは限らないし、
しようとしたところでできなければルールを破ることになり、嫌な気持ちになる。

上京以降の僕が比較的ストレスフリーに生活できているのは、
自分が規定したルールと自分のスキルのバランスがある程度取れているからだと思う。
それは自分の能力が上がったからではなく、ルールを減らすようにしたからだ。
たとえば昔はブログは52行以上書かなければならないという自分ルールがあり、
それによって苦しむことも多々あった。
しかし、「果たしてこのルールは本当に必要なのか?」と吟味した結果
最低行数を規定する意味は特に無いことに気づき、
それ以降ブログ執筆作業は随分楽になった。
無根拠に規定されているルールは、意外と生活の中に潜んでいたりするものだ。

もちろん、ルールを減らすといっても社会常識の範疇にあるルールは捨てられない。
左側通行のルールを破ったところで他人とトラブルになるだけだ。
道徳や法律は守らなければならないし、それはまた別の話だと思う。

法律には必ずそれを施行する根拠が存在する。
それと同じように、自分ルールも説得力のある根拠によって支えられたらと思う。

コメントを残す