大人になるということは自分の無能さを受け入れることである。
思えば僕はこの十年あまりでかつて子ども時代にやりたいと思っていたことの多くを諦めた。
諦めるという行為にはしばしば否定的なニュアンスが含まれ、
この場合は「自分の夢を諦める」という自己否定にも解釈しかねない。
だから諦めるということは悪いことで、諦めないことは良いことなのだと長年考えてきた。
しかし近年、その甘い夢を見せる解釈こそが誤りだったのだということにようやく気がついた。
何かをやりたいと「思うだけ」ならなんら問題ないと思いがちだが、実際にはそんなことはない。
そもそもそれが明らかに実現困難な場合は明らかにそれは無駄な妄想であり、
妄想が現実の歩みを止め、ひいては現実の自分が本当の何かを成し遂げる機会を逸し続ける。
なぜなら、それを「思うだけ」の段階ではそれをするための努力を何もしなくても、
それを実現する可能性を捨てなくて済むからだ。
もし、現実で具体的な行動を起こしたらそれが実現できない理由に直面してしまうかもしれない。
しかし、何も行動しなければそれだけで実現できる可能性を否定しなくて済む。
得てして、本物の無能ほど大それた夢を語るものだ。
何かを成し遂げたいという思いはさまざまなレベルの欲求の表れである。
なんらかの欲求としてそれが頭に思い浮かび、それをするべきと確信しているのであれば、
その欲求を原動力として実際に行動するのが大人として合理的であるように思う。
行動できないなら、それはその程度の夢だということだ。
なんらかの夢を思い描いて、なりたいと思ったらなれるほど世の中甘くはない。
その人にはその人の譲れない都合があるように、世の中には無数の人の都合がある。
観測できない範囲には同じような夢を描いて行動している人もたくさんいるだろう。
それらはさまざまな形での競争がある。決着させるには客観的に優劣を測らなければならない。
しかし思いの強さだけでは人は測れないので、
例えば試験や面接、大会や資格といった客観的評価によってその度合いに序列をつけ、
本当になりたいと客観的に認められた人こそがより社会に認められるという暗黙のルールがある。
客観的評価を得るために必要なのが努力だったり、自分が現実的に備えているスキルだったりする。
決して夢に対する熱意などではない。
かつての僕は、「行動できない」ということに対して随分長く悩んできた。
何かをやりたいということは明白で、それをするのが自分にとって良いことであるのは確かだ。
にもかかわらず長年行動できなかったのはなぜか。
それは、自分の無能さを受け入れられなかったからだと思う。
それによってさまざまなことが停滞し、スキルを伸ばす機会を逸し続け、
結果的に本物の無能になってしまったのはなんとも皮肉が効いている。
僕を無能にしたのは他でもなく、自分だけは無能ではないと信じたい自分自身だったのである。
自分らしさとは、願望によって形成されるものではないと僕は思う。
自分の無能さ、あるいは生まれ持った運命的な特質も含めた上で、
自分が現実的にできることを総体的に捉えて自分らしさを作りあげていくべきだ。
願望、理想、夢、そんなものは空想上の産物でしかない。
現実の自分に不足を感じるからこそ、人は努力しようと思えるのではないだろうか。