#6900

続・独身の話


独り言

紆余曲折あったが、承認欲求というものからは結局逃れられないというのが現時点の僕の立場である。
承認欲求に頼らずにこの心の空虚感を埋め合わせられるかどうかははなはだ怪しい。
人は社会に生きているかぎり、独りでは生きられないのだと改めて思う。
誰とも一切接することのない部屋では生きる意味を見出すことは難しいだろう。

承認欲求は自分の行為(努力)に対して他人がそれを承認(賞賛)することで満たされる欲求である。
どこからを十分な行為とみなすか、何をもって承認とみなすかは議論の余地があるが、
いずれにしても「自分ではない誰か」の協力が必要であることは間違いない。
承認するのも自分自身ならばそれは自己承認であり、他者承認とは区別されている。
そしてたいてい他者承認は自己承認より強力で、
人は安易に他者と繋がる現代社会に生きていればこそ、自己承認だけではなかなか満足できない。

つまり、人は承認欲求を満たせるかどうかを基本的には他者に依存しているのである。
生きていくだけで精一杯の人にとってそれは大きな問題にならないかもしれないが、
生活が豊かになればなるほど欲求全体に占める承認欲求の割合は無視できないものになる。
それがその人にとっての豊かさ、幸福感に直接関わってくるからだ。

従来の自分のようにネット活動で承認欲求を満たそうとすることは一見手軽で賢いように見えるが、
実際には何ら縁もゆかりもない他者に自分の行く末を託すようなものである。
それは未知の価値観の違いによって不意に軋轢を生む可能性を常にはらんでいる。
東大に合格したことを報告すれば「おめでとう」と言われることを期待するのは当然だが、
不特定多数に対して発信すれば学歴コンプを拗らせた人の目にも入る可能性があり、
そういった人からは妬みの目で見られるかもしれない。
それは受験にかぎらずさまざまな成功体験にも似たようなことが言える。
昨今はそういう妬み由来の炎上が増えたと思う。負け組たちはピラニアのように待ち構えている。
ゆえに、不特定多数に成功体験を共有しようとすることには少なからずリスクがあると思う。
彼らは承認の有無によって他人の人生を左右したとしても、それに対して責任を負うことはない。
しかしそれはそれで当然のことだとは思う。赤の他人に人生を支える義務は無い。
インターネットに承認を求めるのは非常に足元の危うい活動であると改めて思う。

ネット活動における「」はその活動内容に対して承認を受けているに過ぎず、
」という存在それ自体は承認をする他者にとって代替可能な存在である。
たとえばあるゲームでトップランカーになり多くの賞賛を受けたとしても、
時代が変わってさらに腕の立つプレイヤーが台頭してくれば従来のような賞賛は得られなくなる。
だから人はなるべくユニークな活動を求め、馬の目を抜こうと躍起になっているのだと思う。
活動の先に存在する「」そのものを認めてほしいからだ。
活動もまた代替可能であり、「」にとって活動そのものはなんであろうと関係ない。
それは要するに誰かの信頼を勝ち取りたいという欲求である。必要なのは信頼であって名声ではない。
ネット活動で承認を得ようとすることが不毛な努力であるように感じられるのは、
顔の見えない他者との間に信頼関係を芽生えさせることが対面交流よりも難しいからではなかろうか。

努力の成果は誰かと共有して喜びを分かち合いたい。それが努力の原動力になるからだ。
承認を求めることの本質がもしそうであるならば、
そこで必要な他者とは相互に信頼していることが必要不可欠な条件になるのではないか。
もしそうでなかったら、
その賞賛はあくまでも努力に対する賞賛であって「」への承認ではないからだ。
相互に信頼している相手というのは要するにお互いにとって代替不可能な存在であって、
精神的に自立した大人にとっては
それこそが結婚相手のようなパートナーと呼ばれる人なのではないだろうか。

2017年当時、従姉が結婚した際に結婚の意義について考えたが答えは出なかった。
いま思えばそれは当時「承認はより多くの人から貰うほど良い」という前提があったからだと思う。
家庭という閉じたコミュニティよりも、
開いたコミュニティでより多くに認められる方が数が大きいからより豊かになれるという考え方だ。
その前提があれば確かに、「結婚はコスパが悪い」と言いたくなるのも分かる。
しかし実際には、信頼できない大勢の承認は信頼できるたった1人の承認に劣るのかもしれない。

誰かからの信頼を得たいと思う人にとって家庭を持つことには大きな意味がある。
それは他でもない自分という人間だけに与えられる、他者と競合しない代替不可能な役割だからだ。
開かれたコミュニティでそうした役割を確立するのはきわめて困難である。
その意味では、結婚という制度は普通の人の人生をもより豊かにする可能性を秘めていると言える。
それはむしろ自分が無能であればあるほど、不特定多数を相手にする活動より相対的に有望である。

生涯独身が必ずしも悲惨であるとも思わないが、
「誰かに必要とされたい」という承認欲求と今後も一生向き合わなくてはならないのであれば、
残りの人生をその欲求を満たせないことから逃げ続けるのは理にかなっているとは言い難い。
かといって、不特定の人たちに必要とされるための努力を続けるのも無理がある。
ゆえに、自立した上でなお承認欲求に飢えるほど基本的生活が豊かなのであれば、
結婚はそこに空いた穴を合理的に充足する手段として選択してもいいのかもしれない。

ただし、家庭を持つということは他人の人生を大きく左右するし、それに責任も伴う。
その責任を背負えるかどうかはまた別の話であり、能力的に不適格なら諦める覚悟も必要だろう。
基本的生活さえままならないような社会不適合者に結婚する資格があるとは、僕は思わない。
結婚という契約には他人を現在よりも不幸にしないという約束が付随していると思う。
いうまでもなく、結婚は魔法でもなんでもないし個人に対する救済措置でもない。
自分だけを一方的に幸福にしてくれるような神や女神はこの世に存在しないだろう。
「誰かに必要とされたい」という欲求が結婚によって満たされるならば、
パートナーの「誰かに必要とされたい」という欲求を満たす努力をするのは当然の義務である。

僕は子どもの頃からずっとずっと承認欲求不満であり続けた。
それによって取り返しのつかない迷走も多くしてきたし、思春期は台無しになったと言ってもいい。
もしも不特定多数に認められなければこの悪夢から醒めないのなら、この世は地獄も同然だった。
しかし、その考え方はそもそも自分が常に「与えられる側」であるという前提に基づいている。
無数のコンテンツ、無数の他人、あるいは人生そのものはなんのためにあるのかというと、
自分を豊かにするために存在するのだと。
かつての僕は人生は退屈しのぎであると信じて疑ってこなかった。

しかし、果たして本当にそうだろうか。僕は誰かに承認を「与える側」にはなれないのだろうか。
もしなれたら、それこそが本当に豊かで意味のある人生だと言えやしないか。
2021年末の帰省で初めて従姉妹の子どもを目にしたとき、その屈託のない笑顔を見てふと思った。
僕が結婚という契約に幸せになれる可能性を見出したのは、そのときが人生で初めてだった。

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