趣味でも仕事でも、やはりというか評価されることの重要性を改めて噛み締めている今日この頃です。
そしてそれは、所属するコミュニティを選択する軸になるものなのかもしれないなと。
まず基本的に、人は頑張っているのに評価されないと非常に強いストレスを感じます。
そして、それが当たり前の環境では自分がやっていることに自信を失っていき、
どんどん主体的に行動することができなくなっていきます。
いまの自分が行っている現場がまさにそう。
自分は問題解決のために自分なりに手を尽くして、それでも分からないことを上司に訊くわけです。
ここまではやったのですが、それ以上は自分の手には負えないですと。
すると上司は、自分が知るはずもないようなローカルルールを持ち出してダメ出しを始めます。
自分が「ここまではやりました」というところには触れることさえありません。
もちろんこれはプロフェッショナルが求められる社会人としては失格で、
上司からしてみれば自分はただただ無能なのでしょう。
先日も書いた通り即戦力でなければお荷物なだけというのがこの業界なので、
現場と自分のスキルがマッチしなかったという、実態としてはただそれだけの話です。
別の現場に行けばこんな自分でもなろう小説の主人公になる可能性があるのがこの業界です。
なので、別にいまの現場で無能扱いされることはこの際受け入れているのですが、
単純にこういう扱いをされるとただただ頑張りたくなくなります。
もう六年前の話になりますが、新潟のブラック会社で働いていた時代、
自分の部下として3つ下の女の子が入社しました。
自分ですらほぼ最年少の職場だったので、その子はダントツで若く、いろんな社員に可愛がられた……
ということはなく、実際にはおばさん連中にいじめられていました。
自分は当時、プロジェクトリーダーとして6人くらいの直属の部下を持ちましたが、
なんだかんだで歴代でその子が一番有能だったので頼りにしていたし、
また後輩も歳の近い自分を慕ってくれていたのでそれなりに信頼関係はあったと思います。
ただ、会社の風潮的におばさん連中に逆らうことは死を意味するので、
表立って後輩の味方をすることもできませんでした。
あるとき、その子が休憩時間を潰して開催される昼の謎会議で仕事のできなさについて追及され、
「私だって、私なりに頑張っているつもりなんです!」
と珍しく大きな声で反論したことがとても心に残っています。
あの子がおばさん連中に真っ向から対抗しようとしたのはそれが唯一だったと思います。
年配者から見てその子の要領が悪いのは事実だったのかもしれません。
だから仕事ができない人という烙印を押して、あたかもいじめる名目みたいなものを手にした。
でもニュートラルな立場から見てその子は特段能率が悪かったわけではありません。
確かに歴何十年というベテランには勝てないけれど、そんなのは当たり前なわけです。
世の中は、絶対的な評価に基づいて優れていると認められる人こそを称賛します。
それはそれで正しいと思います。それが無かったら成り立たない世界は多いでしょう。
でも、実は個人の「やる気」「居心地の良さ」「向上心」といったものは、
その人の主観的な頑張りを誰かに認めてもらえるかどうかの方が大事だったりするわけで、
それは絶対的な評価を是とする価値観に埋もれてしまいがちなのではないかと思います。
その人がポテンシャルを超えて頑張っているのなら、
結果がどんなに見窄らしいものでも褒めるのが人を応援する立場として正しいのではないかと。
もしかしたら絶対的な評価に隠れて、
才気に恵まれている人は3割しか努力していないのにめちゃくちゃ褒められる一方で、
凡才で能力の低い人が死ぬ気で頑張っているのに誰にも見向きもされていない、
そんな現実も当たり前のようにあるのかもしません。
とはいえ、努力していないのに褒められるのが良いというわけでもなく。
誰かが言っていましたが、努力していないのに報酬を得続けると脳の報酬系がぶっ壊れるそうです。
やはり、対価はそれ相応であることが望ましいのでしょう。
ただコミュニティによって自分が埋もれやすかったり、
努力を気にかけてくれやすかったりする違いはあるんじゃないかなと思います。
趣味も仕事もできるだけ頑張りを期待してくれる人がいるところに所属したいし、
そうでないコミュニティにはできるだけ早く見切りをつけた方が精神衛生上良いのかなと。
そういう意味では、
背伸びしてハイレベルなコミュニティに所属することほど愚かな行為もないですね。
自分がIT企業に進出したことがそれに当てはまらないことを祈るばかりですが、
少なくとも現場によっては明らかにミスマッチなところがあるというのは事実で、
この辺は現場選びに活かしていきたい考え方だなと改めて思いました。